注がれた酒
その女性は、当たり前のような足取りで陛下の傍らに近づいてきた。
銀髪を結い上げ、深紅のドレスを纏った、息を呑むほど美しい人だった。彼女は手にした酒瓶を傾け、陛下の杯に静かに酒を注ぐ。
「ありがとう、リディア」
陛下は自然な仕草で礼を告げた。名を呼ぶその声には、確かな親しみがこもっている。
――誰だろう。
そう思う間もなく、今度は別の女性が反対側から歩み寄ってきた。淡い緑のドレスに、涼しげな目元をした女性だった。
「陛下、今夜は私の宮へお越しになる予定でしたでしょう?」
「今宵は無理を言うな。明日にしよう」
穏やかに答える陛下の様子は、動揺一つ見せなかった。まるで、それが当然のやり取りであるかのように。
「……え?」
思わず声が漏れた。頭の中で、状況が上手く繋がらない。陛下の宮に、俺以外の誰かが訪れる予定がある。それも、当然のこととして。
隣の席にいた年配の貴族が、俺の戸惑いに気づいたのか、小声で耳打ちしてきた。
「カイン様、あちらにおわす銀髪の御方が、第一側妃様にございます」
「側妃……様」
聞いたことのない言葉ではなかった。だが、まさか自分に関係のある言葉だとは、これまで考えたこともなかった。
「陛下には、御三方の側妃様がいらっしゃいます。皆、隣国との同盟を結ぶ折に、それぞれの事情でお迎えになられた方々です」
三人。その数の重みが、じわりと胸に広がっていく。運命のつがいとして迎えられた自分の他に、既に三人もの妻がいる。それが、この国では特別なことでも何でもないという顔をして、周囲の誰もが振る舞っている。
「あの……」
かろうじて絞り出した声で、俺は隣の貴族にもう一つ尋ねた。
「側妃様方との間に、お子がお生まれになった場合は」
「臣下として、それぞれ然るべき地位をお与えになります。王位の継承には関わりませぬゆえ、ご安心を」
安心を、と言われても、安心できる要素がどこにあるのか分からなかった。世継ぎは陛下の血筋から養子を迎える。側妃との子は、臣下として遇される。この国のすべての仕組みが、すでに完成された形で存在していて、俺はただ、その中に後から組み込まれた一つの駒に過ぎないような気がした。
「カイン殿」
陛下が、こちらに視線を向けた。俺の顔色の変化に、ようやく気づいたのかもしれない。
「顔色が優れぬようだが」
「いえ……少し、疲れが出たようです」
咄嗟に、そう答えることしかできなかった。本当のことを、この場で口にする勇気はなかった。
「そうか。無理はするな」
気遣うような声音だったが、その優しさすら、今の俺には皮肉に感じられた。三人の側妃がいながら、俺にも同じように優しくする。それが、この人にとっては何の矛盾でもないのだろうか。
宴の喧騒が、急に遠く感じられた。楽団の音楽も、貴族たちの笑い声も、どこか別の世界の出来事のように耳を通り過ぎていく。
俺は杯を持ったまま、テーブルの上の自分の手を見つめた。金色の紋様が、灯りを受けて鈍く光っている。
一人だけを好きになりたい。そう願った、あの夜のことを思い出す。
その願いが叶う場所だと、心のどこかで期待していた。だが今、目の前に広がっているのは、期待とはまるで違う現実だった。




