街での暮らし
王都イグドラの外れ、人間と獣人が入り混じって暮らす区画に、俺は小さな部屋を借りた。
「カインさん、今日は早いですね」
宿の女将――獣人の血を引く、耳が特徴的な中年の女性――が、朝の掃除をしながら声をかけてくる。
「少し、市場に行こうと思って」
「気をつけてね。今日は賑わってるから」
肩書きも、紋様の意味も知らないまま、ただ「カインさん」と呼んでくれる人々との暮らしは、俺にとって何もかもが新鮮だった。
宮を出てから、俺は身分を隠し、市場の一角にある食堂で働かせてもらうことにした。最初は不慣れな手つきで皿を運んでいたが、次第に体が仕事を覚えていった。
「カイン、そっちの皿、頼む」
「はい、すぐに」
厨房を任されている初老の男は、竜人だった。角の一部が欠けているのを、いつも気にしている様子だった。
「昔、戦で怪我をしてな。それ以来、こんな見た目になっちまった」
「格好いいと思いますよ」
素直にそう言うと、男は照れたように笑った。この街では、種族も過去も、それほど重要ではないらしい。誰もが今の暮らしを、精一杯生きている。
働き始めて数日が経ったある日、店の常連客の一人が、俺にこう尋ねてきた。
「カインは、故郷に好きな人でもいるのかい」
「……なぜ、そう思うんですか」
「時々、遠い目をしてるからさ」
図星を突かれ、俺は思わず口ごもった。だが、それを誤魔化す必要も感じなかった。
「います。好きな人が」
素直にそう答えると、客の男は嬉しそうに笑った。
「いいことじゃないか。うまくいくといいな」
その何気ないやり取りに、俺は不思議な感慨を覚えていた。好きな人がいる、とただそれだけを口にすることが、これほど自然にできる場所があるのだと、改めて実感させられる。
前世では、決して言えなかった言葉だった。今世でも、王宮という場所では、様々な思惑が絡み、素直に気持ちを口にすることは難しかった。だがこの街では、誰も俺の立場を知らない。だからこそ、ただの一人の人間として、自分の気持ちを言葉にすることができる。
夜、狭い部屋に戻り、窓の外を見上げると、王城の灯りが遠くに小さく見えた。
陛下は、今頃どうしているだろう。
考えないようにしていても、ふとした瞬間に、思いは自然とそちらへ向かってしまう。それでも以前のように、苦しさだけが募るわけではなかった。
この街での暮らしは、俺に新しい視点を与えてくれていた。身分や立場を取り払った時、人と人との関係が、どれほど単純で、それでいて尊いものになるか。それを、日々の暮らしの中で、少しずつ学んでいる気がした。
「カインさん、明日も来てくれる?」
女将が、階段の下から声をかけてきた。
「はい、もちろんです」
そう答える自分の声が、以前よりもずっと軽やかであることに、俺自身、驚いていた。
この街で過ごす時間が、俺にとって、単なる逃避ではないことは分かっていた。ここで得たものを胸に、いつかまた、陛下と向き合う日が来る。その日まで、俺は俺自身の足で、しっかりと立っていたかった。




