好きな食事とすれ違う想い
傷が癒えてからも、陛下との時間は変わらず続いていた。
「今日は、少し早く執務が終わった」
そう言って現れた陛下と、二人だけの夕食をとることが、いつしか習慣になっていた。給仕された皿には、鶏肉の甘酢漬けが並んでいる。
「これも、覚えていてくれたんですか」
「当然だ。それに、こちらの果実も、お前は好んでいただろう」
差し出された小皿には、俺が以前、何気なく美味しいと口にしただけの果実が添えられていた。些細なことを覚えていてくれるその姿勢に、俺はもう驚かなくなっていた。むしろ、当たり前のようにそれを受け取っている自分に気づく。
「側妃様方のところへは、最近あまり行かれていないようですね」
ふと気になって尋ねると、陛下は少し気まずそうな顔をした。
「そう、見えるか」
「侍女たちが噂しています。……その、側妃様方は、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫、とは」
「俺のせいで、陛下が疎かにしているように見えているんじゃないかと」
陛下は、意外そうに目を瞬かせた後、小さく笑った。
「案ずるな。リディアにもエルヴィラにも、先に話してある。二人とも、快く受け入れてくれた」
「二人とも、というと」
「もう一人には、まだきちんと話せていない。あの子には、少し込み入った事情があってな」
「事情、ですか」
「いずれ、お前にも話す機会があるだろう」
陛下は、そう言って言葉を濁した。それ以上は踏み込まない方がいいと感じ、俺はそれ以上尋ねなかった。
「それに、リディアもエルヴィラも、そもそも私に恋愛としての愛情を求めてはいない。むしろ、お前との関係を、応援してくれているくらいだ」
その言葉に、俺は少し肩の力が抜けるのを感じた。
「別に、意図してそうしているわけではない。ただ、時間ができると、自然とこちらに足が向く」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。義務でも、本能でもなく、ただ「自然と」という言葉で語られたことが、これまでのどんな説明よりも、胸に深く響いた。
食事の後、二人で庭を散策するのも、いつもの流れだった。夜風に吹かれながら、陛下はぽつぽつと執務の話をしてくれるようになっていた。
「今日は、南方の領地から水利権の訴えがあってな」
「難しい問題なんですか」
「ああ。二つの村が同じ川の水を巡って争っている。どちらの言い分にも、一理あるから厄介だ」
「陛下は、どうするおつもりなんですか」
「まだ考えている最中だ。だが……お前と話していると、なぜか考えがまとまりやすくなる」
そう言って、陛下は少し照れたように視線を逸らした。俺はその横顔を見つめながら、ふと妙な感覚に襲われた。
もしこの人が、竜王でなかったら。
もし、ただの一人の男として、こうして隣を歩いていたなら。
そう考えた瞬間、自分でも思いがけないほど、胸の奥が締め付けられた。
――この人が、王様じゃなかったら、俺は。
その先を考えるのが、怖かった。竜王という立場、側妃という存在、この国の常識。それらすべてを抜きにして、ただ一人の人間として陛下を見た時、俺の中に浮かび上がってくる感情は、もう友情や信頼などという言葉では、片付けられないものだった。
「どうした。急に黙り込んで」
「……いえ、何でもないです」
咄嗟に誤魔化したが、内心では動揺を隠しきれずにいた。この気持ちに、名前をつけてしまえば、もう後戻りできない気がした。
「顔が赤いようだが」
「夜風に、少し当てられただけです」
陛下は、疑わしげにこちらを見つめたが、それ以上は追及してこなかった。ただ、隣を歩く距離が、いつもより心なしか近いように感じられた。
自室に戻ってからも、俺は落ち着かない気持ちを持て余していた。
好きな食事を覚えてくれること。話を最後まで聞いてくれること。無理に触れようとしないこと。そのすべてが、竜王という肩書きを取り払っても、俺の胸を温かくする理由になっていた。
側妃が三人もいる。一夫多妻が当たり前の国。そんな現実を、まだ受け入れられたわけではない。それなのに、心はもう、その現実を置き去りにして、陛下という一人の人間に惹かれ始めていた。
窓の外に浮かぶ月を見上げながら、俺は自分の中に芽生えたこの想いを、どうすればいいのか分からずにいた。ただ一つだけ、確かなことがあった。
もう、この気持ちに気づかなかったふりは、できそうになかった。




