二人目の側妃の過去
首筋の傷が完全に塞がるまでの数日間、俺は外出を控え、宮でおとなしく過ごすことになった。
暇を持て余していたある日、見舞いだと言って一人の側妃が訪ねてきた。栗色の髪を三つ編みにした、穏やかな雰囲気の女性だった。
「お加減はいかがですか、カイン様」
「あ……ええと」
咄嗟に誰なのか思い出せず、俺は言葉を濁した。相手は気を悪くした様子もなく、小さく微笑んだ。
「エルヴィラと申します。第二側妃を務めております」
「申し訳ございません。まだお名前を存じ上げず」
「構いません。宴の席で一度お会いしただけですもの」
エルヴィラは、持参した見舞いの品を侍女に預けると、勧められた椅子に腰を下ろした。会話は、はじめこそ当たり障りのないものだったが、次第に踏み込んだ話題へと移っていった。
「先日の襲撃のこと、お聞きしました。恐ろしい思いをなさいましたね」
「ええ、まあ……」
「陛下が駆けつけてくださったとか。よろしゅうございました」
その言葉に、他意はないようだった。それでも俺は、少し気まずさを感じずにはいられなかった。
「エルヴィラ様は……陛下のことを、どう思っていらっしゃるんですか」
思い切って尋ねると、エルヴィラは少し驚いたように目を瞬かせた。それから、静かに視線を伏せる。
「尊敬しております。良き為政者であられますし、私にも分け隔てなく接してくださいます」
「それは、リディア様と同じ考え方でしょうか」
「ええ、似ているかもしれません。ただ、私には、リディア様とは違う事情がありまして」
エルヴィラは、少し遠い目をして、窓の外に視線を移した。
「私には、本当に好きだった人がいました」
「……好きだった人」
「故郷の、幼馴染です。身分は低い家の者でしたが、幼い頃から共に育ち、いつしか将来を誓い合うようになっていました」
その声には、静かな懐かしさと、隠しきれない痛みが滲んでいた。
「でも、私の国が隣国との係争に巻き込まれ、竜王陛下に仲裁を仰ぐことになった時、和解の証として側妃に望まれました。国を救うためには、断る選択肢はありませんでした」
「その方とは……」
「別れました。ちゃんと、話をして。あの人も、私の立場を理解してくれました。私の国を救うためだと」
エルヴィラは、微笑みを浮かべたまま、そう語った。だがその微笑みの奥に、簡単には癒えない傷があることを、俺は感じ取らずにはいられなかった。
「今でも、思い出しますか」
「ええ、時々は。でも、後悔はしていません。あの選択のおかげで、国は救われましたから」
「……つらくは、ないんですか」
「つらくないと言えば、嘘になります」
エルヴィラは、正直にそう答えた。
「でも、この世界では、多くの者が似たような選択を強いられています。私だけが特別ではありません」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。リディアの時と同じように、この世界の現実の重さを、改めて突きつけられた気がした。
「カイン様が、望んでいらっしゃるものは、決して間違っていないと思います」
エルヴィラは、静かにそう続けた。
「ただ、私たちのような立場の者にとっては、その"当たり前"を実現することが、どれほど難しいことか。少しだけ、分かっていただけたら嬉しいです」
そう言ってから、エルヴィラは少し寂しそうに微笑んだ。
「実は、リディア様から、カイン様のお考えを少し伺っておりました。誰か一人だけを想い合いたいと、望んでいらっしゃるのだと」
「そう、だったんですか」
「正直に申し上げると、私にとっては、カイン様が羨ましいのです。望むことを、諦めずにいられる強さが」
「羨ましい、なんて……」
「ええ。私には、もうその強さは残っていないから」
俺は、すぐには言葉を返せなかった。少しの沈黙の後、ようやく口を開く。
「俺が望んでいることは、雲をつかむような話かもしれません。俺も、そう思うことがあります」
「それでも、諦めないのでしょう?」
「……諦めたくは、ないです」
エルヴィラは、その答えに小さく頷いた。それ以上、何も言わなかった。
その言葉は、責めるようなものではなかった。むしろ、静かに現実を伝える、優しい響きを持っていた。
エルヴィラが帰った後、俺は一人、窓辺に座り込んだ。
自分の望みの重さと、彼女たちが背負ってきたものの重さ。その両方を天秤にかけることなど、本当はできないのかもしれない。それでも、両方を大切にできる道を探したい――そんな思いが、俺の中に静かに芽生え始めていた。




