本能と選択のはざまで
城に戻ると、すぐに医師が呼ばれ、俺の首筋の傷を手当てしてくれた。
「浅い傷にございます。数日で塞がるでしょう」
医師の言葉に、周囲の緊張が幾分和らいだ。だが、部屋の隅に立つ陛下の様子だけは、一向に落ち着きを取り戻さなかった。
「陛下?」
呼びかけても、返事がない。よく見ると、陛下の瞳の色が、いつもより濃く、獣のように光っているのが分かった。額には汗が滲み、拳が固く握りしめられている。
「陛下の御様子が……」
侍従の一人が、不安げにつぶやいた。年配の侍女が、慌てたように進み出る。
「つがいが傷つけられ、本能が昂っておられるのです。このような時は……」
侍女は言葉を選ぶように、一度視線を伏せてから続けた。
「陛下、つがいを抱かれれば、お心も落ち着かれましょう」
その一言に、俺は思わず身を強張らせた。まだ体の震えも収まっていないのに、そんなことを求められるとは思っていなかった。
陛下が、ゆっくりとこちらに向き直った。焦点の定まらない瞳が、俺を捉える。
「カイン……」
低く掠れた声。伸ばされた手が、俺の肩に触れようとする。その瞬間、俺は反射的に体を強張らせ、わずかに後ずさっていた。
自分でも制御できない反応だった。ついさっき、刃を突きつけられた恐怖がまだ体に残っている。今この瞬間、どんな理由であれ、誰かに強く触れられることが、怖かった。
陛下の手が、俺の肩の直前で止まった。
一瞬の静寂。陛下の瞳に浮かんでいた獣のような熱が、俺の怯えを目にした瞬間、すっと引いていくのが分かった。
伸ばしかけていた手が、震えながら引っ込められる。
「……すまない」
陛下は、絞り出すような声でそう言った。それから、まるで自分自身と戦うように、深く息を吐いた。
周囲の者たちが、戸惑ったように顔を見合わせている。本能に従えば、それで済むはずだった。誰もがそれを勧めていた。それなのに、陛下はその選択を、自らの意思で退けようとしていた。
しばらくの沈黙の後、陛下は改めて、ゆっくりと俺の前に膝をつくようにして視線を合わせた。
「……触れても、いいか」
以前にも、同じ言葉を聞いたことがあった。けれど、これほど切実な響きでそれを尋ねられたのは、初めてだった。
俺は、驚きのあまり、しばらく声が出なかった。震える手を必死に抑えながら、ようやく小さく頷く。
陛下の手が、今度はとてもゆっくりと、確かめるように俺の手に重ねられた。強引さは、どこにもなかった。ただ、こちらの意思を確かめながら、そっと触れるだけの仕草だった。
「本能に、流されるところだった」
陛下は、静かにそう言った。
「お前が怖がっているのが分かった瞬間、目が覚めた気がした」
その言葉に、俺の胸の奥で、何かが大きく揺れ動いた。周囲の誰もが勧める本能の赴くままの選択を、この人は自分の意思で退けた。俺という一人の人間の気持ちを、本能よりも優先してくれた。
「ありがとう、ございます」
かろうじてそれだけを口にすると、陛下は少し驚いたように俺を見て、それから、ふっと表情を和らげた。
「礼を言われることではない。当然のことだ」
当然、という言葉が、これまでとは全く違う響きを持って、俺の耳に届いた。
痛みの残る首筋よりも、ずっと深いところで、何かが確かに動いていた。この人のことを、もっと知りたい。そう思う気持ちが、恐怖よりも強く、俺の中に広がっていくのを感じていた。




