それ、本能ですよね
その日は、朝から陛下の様子がおかしかった。
執務の合間を縫って俺の宮を訪れた陛下は、いつになく落ち着きがなく、視線もどこか彷徨っているように見えた。
「陛下、大丈夫ですか」
「ああ……いや、少し」
言葉を濁しながら、陛下は無意識のように俺の手を取った。触れた瞬間、明らかに肩の力が抜けるのが分かった。
「……すまない。今日は朝議で、隣国からの使者と厄介な話し合いがあってな。気が立っていた」
「それで、俺に触れると落ち着くと」
「そうだ。本当に、不思議なものだな」
陛下は、まるで褒め言葉のようにそう言って微笑んだ。だが俺の胸の中では、これまで積み重なってきた違和感が、限界に近いところまで膨らんでいた。
「陛下」
「なんだ」
「今、どうして俺の手を取ったんですか」
「それは……お前に触れれば、心が凪ぐからだ」
「その言葉、もう何度も聞きました」
俺の声が、思っていたより低く響いた。陛下は、俺の様子の変化に気づいたのか、わずかに眉を寄せた。
「どうした」
「陛下は、俺のことを、本当に好きだと思っているんですか」
「当然だ。お前は私のつがいだ」
「つがいだから、じゃなくてです」
俺は、自分の中に溜まっていたものを、堰を切ったように吐き出した。
「匂いで落ち着く。触れると魔力が安定する。離れると気が立つ。それって、俺を好きなんじゃなくて、身体が求めてるだけじゃないですか」
部屋の空気が、一瞬で凍りついたようだった。
陛下は、何かを言おうとして、口を開いた。だが、言葉が出てこなかった。その表情には、これまで見たことのない動揺が浮かんでいる。
「私は……」
「本能で落ち着くことと、誰かを愛することは、違うと思うんです」
俺は、震える声を抑えながら続けた。
「陛下が俺に優しくしてくれるのは、嬉しいです。でも、それが本当に俺という人間を見てのことなのか、それとも、ただ竜としての本能に従っているだけなのか、俺にはもう、区別がつかない」
陛下は、しばらく黙り込んでいた。長い沈黙だった。その沈黙の間、陛下の瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いているのが分かった。
「……分からない」
ようやく絞り出された声は、これまで聞いたことのないほど弱々しいものだった。
「運命だとか、つがいだとか、そういうものは、生まれた時から当然のように説明されてきた。だから、疑ったことなど一度もなかった」
「陛下」
「私が今、お前に感じているものが、本能なのか、愛なのか……正直に言えば、その違いを、私は考えたことすらなかった」
その告白は、俺が予想していたどんな反論よりも、重く胸に響いた。悪意で誤魔化されるよりも、こうして真摯に己の無知を認められる方が、かえって苦しかった。
「陛下は、悪い人じゃないと思います。でも」
「でも、それだけでは、足りないと」
陛下が、静かにそう続けた。俺は、小さく頷くしかなかった。
陛下は、それ以上何も言わずに、ゆっくりと立ち上がった。その背中には、これまでにない重さが乗っているように見えた。
「少し、考えさせてくれ」
それだけ言い残し、陛下は部屋を出ていった。
一人残された俺は、自分が放った言葉の重さに、改めて震えていた。傷つけるつもりはなかった。ただ、これ以上、曖昧なまま流されたくなかった。
窓の外、夕暮れの光が部屋を赤く染めていく。俺はその光を見つめながら、自分が本当に望んでいたのは、陛下を問い詰めることではなく、ただ、本当の意味で見てほしかっただけなのだと、ようやく気づいていた。




