第7話 美という名の毒
いま、宮廷と都の市井を急速に蝕みつつあるのは、一枚の怪文書――そこに記された四行の詩であった。
東風吹散清雅煙
孤輪独照万家眠
烏啼暗木光真尽
明朝唯見血如泉
「東風が吹き去って、清らかで風雅なもや(煙)が晴れ渡った。
ぽつんと浮かぶ丸い月(孤輪)が、静かに眠る万民の家々を照らしている。
烏が暗い森の中で鳴き、夜明け前の(月と星の)光が真に尽きようとするとき、
明くる朝には、ただ泉のように(美しく真っ赤な)朝焼けが広がっているのが見えるだろう」
執務室の静寂の中、白静蘭は問題の詩が書かれた紙を机の上に静かに広げ、その意味を口ずさんだ。
「この詩、何がそんなにいけないの? 新しい春の朝焼けをきれいに詠んだ、ただの景色じゃない」
隣で覗き込んでいた同僚の女の子が、不思議そうに首をかしげる。
「本当の意味はそうなんだけど……」
静蘭は筆を取り、詩の中の『光真』という文字を優しく丸で囲んだ。
「でも、よく見て。この国を治める皇帝陛下の、本当のお名前は何かしら」
同僚はハッと目を見張った。
「あ……光真帝……!」
「そう。増してそのすぐ後ろに『尽きる』という文字がある。つまりこの詩は、表向きは『夜明けの光が消える』と言いながら、裏では『皇帝の命が尽きる』と予言しているように読めてしまうの」
同僚はごくりと息をのんだ。
「そんな……じゃあ、最後の行にある『血の泉』っていうのは……」
「朝焼けの赤さじゃないわ。この宮廷が、血の海になるっていう脅しと解釈されてるわよ」
恐ろしい深読みの存在に、同僚は顔を蒼白にして言葉を失った。
高尚な言葉だからこそ、人々は表面の美しさではなく、裏に隠された「呪い」や「政変の暗号」としてこの詩を捉え、大パニックに陥っていたのだ。
――だが、本当にそうなのだろうか?
静蘭が詩文の違和感に思索を巡らせていると、勢いよく執務室の扉が開かれた。
「知古ちゃんの言う通りだったわ! 誰も悪気があって噂を流しているわけじゃなかったの!」
書庫から戻った翌日、息を切らせて執務室へ飛び込んできたのは、賑やかな装飾の帯を揺らした蘇如意だった。彼女の家は身分は高くないが普段から踊りやお香を愛し、推す派の若者たちとも分け隔てなく交流する。今回彼女は、街の噂の「発生源」を足で稼いで調べてきたのだ。
「市井の占い師や商人たちに話を聞いてきたの。彼らはね、この詩が『呪い』だなんて最初から思っていなかったのよ。ただ、先代のころの古い言葉なんて難しすぎて、さっぱり意味が分からないでしょう?」
如意は卓上に広げられた漢詩の写しを指さした。
「例えば一節目の『東風』ね。これだって、春の訪れを告げるただの『おめでたい風』じゃない。でも、意味を知らない民衆の耳には『どこかから恐ろしい毒煙を運んでくる風なんじゃないか』って、勝手に怖く聞こえちゃったのよ」
「恐れが、難解な言葉を『呪い』へと誤訳してしまったのですね……」
静蘭がつぶやくと、紫恪礼も深く頷き、囁いた。
「言葉というものは、恐れを通して読まれると、いつも一番悪い意味に転がるものだわ」
「ええ。そこに『光真朝霞』という神託や大祭の準備が重なった。言葉の意味が分からないからこそ、人々は自分たちの知っている一番恐ろしいストーリー――『お祭りのやり方が悪いから天罰が下る』という不吉な予言へと言い換えて、噂を膨らませてしまったのね」
誰一人として悪者などいなかった。ただ、高尚すぎる表現が民の理解を超えていたこと。
そして、誰もその言葉を「わかりやすく言い換えて、正しく届けてあげなかったこと」。それこそが、今回の騒動の正体だったのだ。
同じころ、回廊の少し手前にある人けのない中庭。
長安皇子は、握りしめた拳を白くさせながら、隣を歩く姉・長楽公主に訴えていた。
「姉上は、恐ろしくないのですか。父上が……もしこのまま退位を迫られるようなことにでもなれば」
「滅多なことを仰らないで。父上はまだ、そのようなことを一言もお決めになってはいないわ」
公主は静かに、しかしきっぱりと弟を諭す。だが、その声にわずかな翳りが差していることを、皇子は見逃さなかった。
「でも……もし、もしそうなったら。この国は、これからどうなるのですか。姉上か、私か……」
「その先を案じるより先に、貴方には、なすべきことがあるでしょう」
公主は足を止め、弟の瞳をまっすぐに見つめた。
「誰が玉座に座るかより、この国が、どちらの正義も切り捨てずに済む道を見つけられるかどうか。それこそが、今わたくしたちが案じるべきことです」
皇子は俯く。姉の理性的な言葉が正しいと分かっていても、募る不安を拭いきれずにいた。
「私は……ただ、父上があんなにも苦しんでおられるのを見ていられないのです。先代の美しかった世を、私たちが壊してしまったのではないかと……」
「参りましょう。案じるだけでは、何も変わらないもの」
長楽公主はそっと弟の手を握り、歩みを進めた。
回廊へと抜けると、ちょうどそこには重苦しい面持ちで報告を受けている静蘭たちの姿があった。
「鎮安侯閣下は、本日も推す派から強い延期の圧力を受けているわ」
知微の硬い報告に、静蘭の胸が痛む。父は一切の言い訳をせず、ただ黙々と大祭の準備を進めている。そのことが、抑える派の中でも孤立を招いるのであった。
そこへ現れた皇嗣たちの姿に、静蘭たちは深々と礼をとる。
「……白静蘭」
声をかけてきた長安皇子は、袖の中でぎゅっと何かしらの紙片――市井から回収されたあの不気味な詩の写しを握りしめていた。彼はどこか影のある瞳で静蘭たちを見つめる。
「街の噂は聞いた。やはり、この詩は父上の治世の終わりを告げる不吉な予言なのではないか? 先代の描いたあの美しく絢爛な世界を捨て去ったから、天が怒っておられるのだ……」
皇子は先代の華やかな文化に強い憧れを抱いており、実務ばかりを優先する今の宮廷に寂しさを感じていた。だからこそ、噂を恐れつつも「先代の美」にどこか縋りたい自分がいた。
「皇子、よさないか」
それを静かに制したのは長楽公主だった。聡明な瞳を持つ彼女は、公平な視線で静蘭を見つめた。
「白静蘭。無駄を省き、民の暮らしを守る『実務』の大切さは理解しているわ。けれど、言葉や美しさを単なる『毒』として遠ざけ続けるだけでは、人々の心の不安は消えないのではないかしら」
「公主殿下……」
「あなたたちがその『言葉のバグ』を解き明かそうとしているのなら、見せてみなさい。言葉が人を脅かす毒ではなく、人を救う光になれるのだという証拠を」
長楽公主の言葉は厳しくも温かかった。彼女もまた、父・光真帝の深い孤独と宮廷の分断を真剣に心配していたのだ。
皇嗣たちが去った後、静蘭はその場に佇み、思索を巡らせた。
(原因は、誰も言葉をわかりやすく言い換えて、正しく届けてあげなかったこと……)
如意の言葉。そして公主の「言葉が人を救う光になれる証拠を見せなさい」という問いかけ。
二つの言葉が、静蘭の頭の中でカチッとひとつに噛み合った。
「そうよ……恐れられているなら、正しく解き明かして見せればいい。わかりやすく、言い換えて……!」
静蘭の脳裏に浮かんだのは、ライバルであり魂の友・朱彩霞の姿だった。
難解で高尚だからこそ恐れられてしまった過去の美しい詩。
それを、誰もが理解できる「本当の美しい意味」へと正しく言い換え、人々の心に届けることができるのは――最高の詩歌の才能を持つ彩霞と、型にはまらない真の優雅さを書で表現できる自分しかいない。
「恪礼、知古、如意……みんな、力を貸して欲しい」
静蘭は仲間たちに向かって、まっすぐに目を向けた。
「明朝の御前会議で、すべての誤解を解きますわ。言葉を恐ろしい怪物から解き放ち、元の美しい姿へと戻すのよ」
静蘭はすぐさま知微に向き直った。
「知微、今すぐ彩霞へ文を届けてちょうだい。『あなたの言葉が必要なの。明朝、御前で待っている』と」
「まかせて!」
知微が文を手に疾走していく。
言葉のすれ違いによって生まれた「見えない熱狂」を打ち破るため、静蘭たちの命がけの挑戦がいよいよ始まろうとしていた。




