第6話 消された名前
静蘭たちは夜の闇に紛れて、司馬知古が守る書庫へと急いだ。知古は、代々科挙合格者を輩出する学者一族の娘だ。歴史・法律・過去の記録に詳しい。
「知古、何かわかった?」
たくさんの本が並び、紙の香りが満ちる部屋で、知古はすでに古い記録を広げて待っていた。
「よく来てくれたわ、静蘭、恪礼、知微。あなたたちが探している、あの『散』の字を含む『一時消散』という言葉について、古い記録を片っ端から調べておいたの」
知古は、埃を払った厚い本を開いて見せた。
「ここを見て。この言葉は、本来は『朝霞が日の光に優しく溶けて消えていく、儚くて美しい朝の景色』を褒めたたえた、とても由緒ある、綺麗な詩の一節だったのよ。呪いなんかとは、およそ無縁の美しい言葉のはずなの」
「それが、どうして天罰のシンボルのようになってしまったの……?」
静蘭の問いに、知古は一瞬、ためらうように視線を落とした。そして、そのページの端を指さした。
「……それが、一番の謎なの。この素晴らしい詩を作った人の『名前』だけが、公式な記録のあらゆる場所から、刃物で削り取られたように綺麗に消し去られているのよ」
「それはどういうことなの?」と、静蘭が問いかける。
「これは、まるで、その人が最初からいなかったかのように、歴史から消そうとしたみたい」
「え、検閲、ということかしら。都合の悪い言葉を書いた者を、宮廷が消し去った……」
恪礼が眼鏡の奥で目を細めた。知古は静かに首を振る。
「いいえ、検閲ならもっと乱暴なやり方をするはずだわ。記録ごと焼くとか、ページごと破り捨てるとか、そもそも詩自体残らないわよ」
「そうね。見たところそんな風な乱暴なことにはなってないわね」
「そうよ、これはとても丁寧に仕上げてあるわ。名前の部分だけが、まるで職人の手で丁寧に、几帳面に削り取られているの。まるで――誰かが自分から、名を消してほしいと望んだかのような、そんな消し方だわ」
「自分から……?」
まるで大切な秘密を慈しむかのように、優しく削り取られた空白の跡。静蘭は、そこへ躊躇いがちに指先を触れさせてみる。けれど、闇のなかで指先に触れたのは、ただ容赦のない紙の冷たさ、それだけだった。
(……あの『孤城閉』を書いた人も、同じように傷ついて名を消したのかしら)
知古はさらにページをめくり、記された日付を指し示す。
「それに、この詩が記録に残されたのは、ちょうど清雅帝の御代が隆盛の頃。まだ何者でもなかった、若い誰かが詠んだ詩、ということになるわね」
四人の間に、しばしの沈黙が落ちる。
やがて恪礼が、ぽつりとつぶやいた。
「……それにしても、不思議だわ。『消散』という、こんなにも美しい言葉が、どうしてこうも恐ろしく読み違えられてしまったのかしら」
知古は、静かに微笑んだ。
「昔の言葉は、いつもそう。優雅な意匠を凝らした表現ほど、意味を知らない者の耳には、かえって恐ろしく響いてしまうものなのよ。まるで――誰かがきちんと読み解いてあげなければ、美しいものが美しいまま伝わらない」
その言葉に、静蘭の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
(読み解けば、美しいものに戻る……)
無惨に、しかし愛おしむように優しく削り取られたその余白を、窓から差し込む冷徹な月光が、ただ虚しく照らし出していた。
言葉の美しさの裏に隠された、宮廷の暗い秘密。
胸の奥の冷たいざわめきを道連れに、静蘭たちは、一寸先も見えないほどに深い謎の闇の中へと、ゆっくりと踏み出していった。
知古の書庫にほど近い、宮廷のさらに奥深く。
静まり返った執務室で、威厳ある面持ち――光真帝は、街から集められた薄紙に並ぶ、その七文字をじっと見つめていた。
「東風吹散清雅煙」
誰も知らない、何か遠い昔の記憶に触れているような沈黙が、しばらく部屋を満たした。
外から聞こえる夜番の足音すら、ここには届かない。
宮廷の窓外には、夜霧の向こうにぼんやりと、父である先代・清雅帝の時代に造営された華美な庭園の影が浮かんでいる。
帝にとって、先代の治世は決して忘れてはならない、そして身に染みついた教訓であった。
美を極限まで追い求めるあまりに国費を使い果たし、民を飢えに苦しませた父。その失敗を若い頃に間近で見、苦い思いを重ねてきたからこそ、彼は即位して以来、静蘭の父である鎮安侯ら抑える派を重用し、徹底した緊縮財政と実務への回帰を貫いてきたのだ。
「無駄遣いはやめよう。二度と、美という名の毒で国を傾けてはならない」
――それは、長年この国を率いてきた帝が、自らに課し続けてきた絶対の義務であった。そして、子である長楽公主、長安皇子にも、切々と言い聞かせてきたことだった。
しかし、その硬い決意の裏側で、彼の魂は高貴な文人としての飢えを完全に捨て去ることはできていなかった。
(……それでも、やはり美しいのだな)
帝は静かに紙を見つめ続けた。
人々の恐れによって筆先がひん曲がり、墨が醜く淀んでいてもなお、言葉の底に流れる旋律の圧倒的な美しさは、隠しようもなかった。
本心では、帝は誰よりも詩を、そして書を深く愛している。一国の命運を背負うという、あまりに重い玉座の衣をすべて脱ぎ捨て、ただ一人の無名な文人として、その完璧な美の世界に溺れたくなる衝動が、ふいに胸を突き上げていた。衝動は、年齢を重ねてもなお、心の奥底で静かに燻り続けていた。
実務という民のための正義。
芸術という魂のための正義。
成人した我が子たちの行く末を見守る親であり、国を統べる帝である彼は、二つの正義の狭間で、深く重い孤独に沈んでいた。
「誰かあるらぬか」
「……ははぁ、ここに」
「この詩を書いた者を、探し出せ。……ただし、乱暴な真似をしてはならぬ」
手荒な真似をしてはならぬ、と臣下に命じたのは、恐怖に駆られて筆を執っただけの者を、無闇に罰したくはないという、彼なりの誠実さゆえだった。
それに、この詩の行く末を、なぜか自分の目で見届けたいという、筆舌に尽くしがたい思いもあった。
その声は怒る様子でもなく、ただ愛おしそうに、そして深く心配するように、闇の中に静かに溶けていった。




