第5話 熱狂する恐れ
宮廷の最奥に 佇む執務室。 昏がりのなか、 頼りなく揺らめく一筋の灯火だけが、机上に 乱れ広がる数枚の薄紙を、白々と 妖しく照らし出していた。
抑える派の侯爵令嬢白静蘭、規律担当紫恪礼、そして市井の巡回から戻ったばかりの実務担当林知微は、重苦しい沈黙の中で顔を突き合わせていた。
「見てきたわ。……街の空気、思っていた以上に淀んでいるわよ」
知微は席に着くなり、疲れた声で切り出した。
「酒楼でも、市場でも、みな今の御代の話ばかり。『光真帝陛下はお優しすぎる。だからこそ、こんな天罰が下ったのだ』なんて、したり顔で語る者もいれば……」
「かと思えば」と、静蘭が静かに引き取った。
「『清雅帝の御代はもっと羽振りが良かった』と、懐かしむ声もあるのでしょう」
知微は小さく頷いた。
「ええ。緊縮のせいで都の景気が悪いって、あちこちで愚痴られているの。推す派も含めてよ。あの頃がどれほど宮廷を傾けたか、忘れてしまったかのように……」
恪礼が、眼鏡の奥でわずかに眉をひそめる。
「民の記憶とは、都合よく美化されるものですわ。けれど、その美化された過去が、今の帝への不満と結びついてしまえば――」
「厄介なことになりますわね」
静蘭は静かに頷くと、卓上に広げられた数枚の薄紙へと視線を落とした。灯火の頼りなげな揺らめきだけが、その紙面を白々と照らし出している。
そこに書き付けられていたのは、ここ数日、都の辻々で密かに配られているという不審な詩の写しである。
―― 光が真に尽きようとするとき、
明くる朝には、ただ泉のように美しく真っ赤な朝焼けが広がっているのが見えるだろう。――
「……やはり、奇妙ですわ」
|静蘭は指先で、ざらついた紙面をなぞった。
国を治めるための四角く硬い文字を日々扱い、筆跡の均整を見極めることを生業とする彼女にとって、その書体は異様な違和感を放っていた。
「ねえ、これ、見て。この文字だけ、妙に太いと思わない?」
知微が指し示したのは、「血」の一文字だった。恪礼が、慌てて、別の写しの同じ箇所へと、目を走らせる。
「……こちらの紙にも、同じ箇所に、同じような太さが」
「わたくしのこちらにも」
静蘭もまた、手元の写しを、あらためて見直した。書き手ごとに、まるで違う筆致でありながら、なぜか「血」や「散」といった文字にだけ、共通した歪みが、確かに、存在している。
三人は、しばし、無言のまま、それぞれの写しを、幾度も見比べ続けた。
「どの写しを見ても、特定の文字だけが、まるで同じ人間が書いたかのように、歪んでいるのよ」
知微が、静かに、そう言い切った。
彼女たちの視線が、紙面に並ぶ「血」や「散」といった、不吉な響きを持ついくつかの単語に、静かに集中していく。
(……いいえ、言葉は毒じゃない。彩霞と誓ったように、私たちが清流に戻してみせる)
通常の書作における「墨継ぎ」は、筆に墨を含ませ直すことで文字に呼吸と潤いを与える、美しく自然な休止符でなければならない。
しかし、この写しに並ぶ文字群の墨継ぎは、どれも異様なほどに太く、執拗なまでに紙面へねじ込まれていた。まるで、書く者が無意識に筆先へ力を込め、恐怖に震える手を無理に抑え込もうとしたかのように。
「これは、誰か一人の『悪者』が、意図して書いたものではありませんわね」
恪礼が、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「ええ。これは大衆の『恐怖や不安』そのものが、筆先を狂わせた結果のバグなのです。一人ひとりの心にある小さな動揺が、書き写されるたびに文字の角を尖らせ、墨を淀ませていった……。言葉が、人々の無自覚な恐れを吸って、勝手に歪んでいく。これほど恐ろしいことはございませんわ」
静蘭の言葉に、室内の空気は一段と冷え込む。手元に遺された歪な文字群は、誰も悪くない、しかし確実にそこに存在する「見えない熱狂」の存在を告げていた。
その時、閉ざされた窓の向こうから、微かな歌声が滑り込んできた。
夜霧の立ち込める宮廷の中庭。そこで遊ぶ下級女官の子供たちが口ずさむ、他愛のない手遊び歌のようだった。
子どもたちが輪になり、ゆっくりとしたリズムで手を打ち始める。パチ、パチ、と乾いた音が響く。
「♪ 天に一筋、金の糸…… 戻らぬ旅の、戸とが開く。……もう、おしまい」
幼い子供特有の、平坦で抑揚のない声。それが冷ややかな夜気を通じて、執務室の静寂を切り裂いていく。
歌詞の意味など理解していないであろう無邪気な響きが、かえって耳の奥に冷たくへばりついた。
「もう、おしまい……?」
知微が、怪訝そうに眉をひそめる。
「ただのわらべ歌ではありませんわ」
静蘭は窓の外を見つめながら、拳を固く握りしめた。
「今、宮廷の外では、この不気味な手遊び歌の歌詞が、都合よく解釈され始めています。先日の神託『光真朝霞』、周辺国との緊張、それから私の父である鎮安侯が司るお祭りのやり方が悪いから、天の戸が閉ざされ、国が『おしまい』に向かうのだと……大人たちがそうこじつけ、デマをエスカレートさせているのです」
無垢な子供たちの声を媒介にして、悪意なき噂は確実に、そして急速に宮廷の内外へ伝染しつつあった。
「実際、事態は本当に深刻ですわ」
恪礼は、一通の厳しい書状を机の上に置いた。
「上層部でも、今回の『国の大祭は延期すべきだ』という声が、無視できないほど大きくなっています。抑える派も有効な対策が採れず沈黙するしかなく、お父様である鎮安侯閣下も大祭を進めようとして孤立している状態ですわ」
静蘭の父親が追い詰められている。派手なことをせず、無駄を省いて、誰よりもこの国の平穏を願ってきた父が、形のない噂の暴力によって引き摺り下ろされようとしていた。
胸を突くような焦り。だがその時、静蘭の頭に浮かんだのは、先日の詩会での光景だった。
(あの時、対立する朱彩霞と、言葉を通じて一瞬だけ心が重なり合った。あの完璧な美術品のように、凛として美しい書。そして、公主殿下が仰っていた、言葉には、人を怖がらせる毒もあるけれど、人の心を震わせる圧倒的な美しさの力もあるはずだ。)
「……私は、諦めません。噂の暴走を止めるには、その基に何があるのかを突き止める必要がありますわ」
静蘭は恪礼と知微を見つめ、きっぱりと言い放った。




