第4話 市井の濁り、宮廷の歪み
都の賑やかな『酒楼』の片隅では、噂好きな町衆たちが杯を片手に声を潜めていた。
「おい、あの流行りの詩、知ってるか!」
「なんだい? またあの詩で新しい何かが出たのかい?」
「あらあら、あの詩だろうがなんだろうが、あたしゃ景気が良くなるなら大歓迎さね。ねえ、そこのお客人!」
「ふん、世迷い言を。あの詩はな……いや、やめとこ。お前たち、酒を飲んでる場合じゃないぞ」
時を同じくして、薄暗い『茶館』の片隅では、地方からやってきた旅商人が顔を突き合わせていた。
「聞いたか? 南の街道で仕入れた話だがな……あの流行り詩、ただの春の歌じゃないらしい。何でも、今の皇帝陛下の『命が尽きる日』が、暗号で書き込まれているそうだ」
「おい、滅多なことを言うな。どこから出た話だ?」
「さあな。地方を回る役人の間で、すでに写しが出回っているらしいぞ……」
「それは、本当か……!?」
陽の当たらない、寂れた『路地裏』では、乞食や浮浪者たちが身を寄せ合って囁き合っていた。
「お偉方の首が飛ぶぞ。血の雨が降る。」
「なんだよ、藪から棒に」
「あの詩だよ。国を抑える派の親玉が、皇帝を呪い殺して、自分の都合の良い国にするために都に流したのさ」
「おい、滅多なことを言うもんじゃないぞ」
「それより、おれたちみたいなもんは、今のうちに米を買い込んでおいた方がいいぞ……」
「でも、銀子がないぞ……おい、辻に座ろう。稼ぎに行くぞ……」
人通りの激しい『市場』の辻では、怪しげな占い師が机を叩いていた。
「おや、そこのお客人。お顔に不吉な『影』が差しておいでですね……ふふっ、少し私の占いを聞いていきませんか?」
「……」
通りがかった男がピクリと眉を動かし、足を止めた。
「なんだ、なんだ。俺はただの旅の者だ。そんな大層な相が出ているなら、占ってもらおうか。ほら、これお代だ」
「白木蓮が落ちる頃、赤い朝焼けは血に染まる。……お客さん、いま都で子供たちが口ずさんでいるあの詩はね、この国の終わりを告げる天からの警告なんですよ。ほら、この卦にもはっきりと……」
「なんだよ、お国のことかよ! 俺には関係ないじゃないか。こら、お代を返しな」
市場の辻から少し歩いたところにある、馴染みの八百屋へ――。
「毎度! お姉さん、今日は宮廷の御用達かい? 瑞々しい山菜が入ってるよ!」
「ありがとう、店主。それをいくつか貰おうかしら。……ねえ、なんだか今日、市場のあちこちが妙に騒がしくない?」
林知微が代金を支払いながらさりげなく尋ねると、八百屋の店主は周囲を気にするようにふっと声を潜めた。
「ああ、お姉さんも気づいたかい。いやね、数日前からおかしな詩が流行ってるだろう?知ってるかい? 」
「詳しく聞かせて貰おうかしら」
「いいよ。最初は子供の流行り歌かと思ってたんだが……何でもあの詩、今の皇帝陛下の命を縮める呪いだとか、お上がひっくり返る前触れだとか、物騒な噂になってやがるんだ」
「……呪い、ですか?」
「ああ。うちの仕入れ先の農家連中まで怯えちゃってさ。『もし都で戦が始まったら、出荷どころじゃない』って、今朝も大騒ぎさ。お姉さんも宮廷で働いてるなら、気をつけなよ」
手渡された籠を受け取りながら、知微の背中に冷たいものが走る。
(旅の商人や占い師だけじゃない。こんな実直な八百屋の店主や、地方の農民たちまで本気で怯え始めている……!)
買い出しの荷物を抱え、回廊へ戻ろうとしたその時、彼女の足元に風で一枚の紙切れが転がってきた。路地裏のゴミ溜めから飛んできたらしい、民衆が手書きで粗末に書き写した、例の詩の紙だった。
「……? これ、は……」
拾い上げ、じっと見つめた瞬間、彼女の鑑識眼が鋭く光った。貧困層出身で科挙を突破した実務家だ。
彼女は街の異常な空気に激しい胸騒ぎを覚え、路地裏に捨てられていた手書きの写しや、辻で配られていた粗末な紙をいくつか拾い集めると、並べてじっくりと検分した。
(……おかしいわ。文字の癖も用紙もバラバラで、書き手は全員別人のはずなのに……特定の文字の墨継ぎだけが、異様なほど太く、強く書かれている。まるで、写した誰もが同じ言葉の恐ろしさに息を呑み、同じ場所で筆が震え、力んでしまったかのように――)
——墨継ぎ。
それは、書道の途中で筆に新しく墨を含ませる動作のことだ。かすれかけた文字に再び命を吹き込み、文章を次へと繋ぐための、一時の休息。新しく漆黒の墨をたっぷりと吸い上げた筆先は、まるで先ほどまでの迷いや肌寒さを吸い込んだかのように、重く、深く、妖しい光を湛えている。
人々の「恐怖」が文字の太さとなって滲み出ている紙片。知微は、懐にその不気味な紙を滑り込ませると、息を切らせて宮廷へと走り戻った。
宮廷の回廊に滑り込むなり、彼女は待っていた紫恪礼へと駆け寄る。
恪礼は、白家と同じ抑える派の名門貴族の令嬢で宮廷の規律や公式な儀礼に誰よりも詳しい。
「大変よ、街の空気がおかしいわ。あの詩が『皇帝陛下を呪うものだ』って、商人から乞食までが声をひそめて噂しているの。これ、市中から回収したものなんだけど……」
息を乱しながら差し出された紙クズを受け取り、恪礼は厳しく美しい眉をすっと顰めた。
「――やっぱり、市井にまで広がっていたのね。宮廷の内部さえも、いまや噂の渦に呑まれようとしているわ」
恪礼の口から告げられたのは、知微の持ってきた噂をさらに深刻化させる、冷酷な実害だった。
「この不吉な噂のせいで、来月の国の大祭を延期すべきだという声が上層部から出始めているの。もし延期になれば、儀式を司る我が家だけでなく、国政そのものが麻痺してしまうわ」
ただの噂だと思っていたものが、市井の民衆の恐怖と、宮廷の政治的な思惑の両方から、まるで示し合わせたかのように押し寄せてくる。
それは見えない巨大な網のように、静蘭の父親である抑える派の鎮安侯を、確実に、そして無慈悲に追い詰めていくのだった。




