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第357話 一瞬の犯行

 人間界のヴァランティーヌ侯爵領での視察を終えた俺は、息をつく暇もなく次なる戦場――魔界へと空間転移を果たした。


 視界が歪み、空間が切り替わった瞬間。

 全身の肌をジリジリと焼くような濃密な森の気配と、本来ならば内陸の森に存在するはずのない「生臭い潮の香り」が容赦なく鼻腔を打ち据えた。


 魔界の広大な森林地帯。

 『樹木の魔人』たちが支配していた緑豊かな縄張りの中心部は、今や見る影もない異様な光景へと変貌を遂げていた。


「……相変わらず、むちゃくちゃな規模だな」


 遥か上空に転移した俺は、眼下に広がるその壮大かつ絶望的な光景を見下ろした。

 現在、この森には「シャチの魔人」絶海の異名を持つオルカスが、己の軍勢を率いて大規模な侵攻を行っている。


 オルカスを中心とした、海を縄張りとする強大な魔人たちが津波という形で海水を持って来て、森のど真ん中に広大な『深海領域』を展開しているのだ。


 見渡す限りの大森林が、巨大な結界に閉じ込められた莫大な量の海水によって、丸ごと水没させられている。

 まるで神が大地に作り出した、悪趣味な巨大水槽だった。


 以前この地を訪れた際、俺はこの巨大な水槽の水を抜くため、あらゆる魔法を無効化し消滅させる『魔封印』の力を利用して、結界の壁面に直径二メートルほどの穴を二十箇所ほど空けておいた。


 だが、目を凝らして水槽の底面付近を観察してみると、状況が芳しくない。


 いくつかの穴が何らかの方法によって完全に塞がれてしまっているようだった。

 予想に反して、水槽の水位はほとんど減ってはいない。



 ***


「おい、デメテル。せっかく開けた穴が塞がれているじゃないか」


 俺が呆れたように胸元へ問いかけると、胸ポケットの中で何かがモゾモゾと動いた。

 次の瞬間、ポケットに忍ばせていた『豊穣のデメテル』の分体が、ただの種の状態から発芽し、瞬く間に手のひらサイズの花の妖精のような姿へと成長を遂げて顔を出した。


「ふわぁ……あら、あんた。また戦う気になったの?」


 小さな背中の羽を伸ばしながら、デメテルが欠伸混じりに随分と呑気なことを聞いてくる。自分の本体がいる森が絶賛水没中だというのに、危機感の欠片もない。


「戦う気も何も、ふざけた真似をしてくれた落とし前はつけさせるさ。それより、穴が塞がれたのなら、俺にすぐ知らせろよ」


「大丈夫よぉ。まだ他の穴からは、水が出てるじゃない」


 けろりとした顔で言い放つ妖精に、俺は思わず眉間を揉んだ。


 ……魔人という存在は、そもそも寿命の概念が人間とは比較にならないほど長い。彼らにとっての「数ヶ月」や「数年」は、人間でいうところの「数時間」程度の感覚なのだろう。


 事態の深刻さや、時間に対する捉え方が根本的に違っている。


「そうは言っても、お前だって早いところこの水を抜きたいだろ。これでは埒が明かない」


「うーん、それはそうね。海水って、ねとっとしてて、なんだか生理的にキモいんだもの。私のかわいい木々たちも息苦しそうだし」


 潮のベタつきを思い出したのか、デメテルは小さな体をブルッと震わせた。


 現在の稼働している穴の数は、せいぜい十個程度。

 この莫大な水量を十個の穴から自然排水で抜ききるには、計算上、五百日以上の途方もない時間がかかるだろう。


 魔人のデメテルにとっては「たった五百日」かもしれないが、人間界の防衛戦線にも気を配らなければならない俺にとっては、到底待てる時間ではない。


 それにしても、敵が穴を塞いでいるとはいえ、まだ十個の穴が生き残っているのは興味深い。

 あの莫大な水圧によって勢いよく流れ出している海水に逆らって穴を塞ぐのは、魔人といえどもそう簡単な作業ではないらしい。


(……ちまちま待つのは性に合わない。排水用の穴を、一気に百個以上に増やすか)


 百以上の穴を空ければ、およそ五十日――

 二ヶ月もあれば、この巨大な水槽の海水は完全に抜けきるはずだ。


 透明な結界の内部、薄暗い海水の中では、アルラウネ・シルヴァ陣営の『樹木の魔人』たちと、オルカス勢力の海を住処とする魔人たちによる激しい小競り合いが続いているのが微かに見える。

 しかし、互いに環境のデバフとバフが入り乱れ、どちらも決定打に欠ける膠着状態に陥っているようだ。


 戦いは完全な持久戦の様相を呈している。

 敵の海水による包囲を、無事な森の木々を保護しつつ、外側から迅速に破壊してやらなければならない。



 ***


 俺は自身の気配と魔力を完全に断つ隠密魔法を発動し、水が勢いよく流れ出ている方角へと空間転移で飛んだ。


 水槽の下部、激しい水しぶきと轟音が響き渡るポイントの影に身を潜め、穴の様子を探る。


 視界の先、強烈な水圧に逆らいながら、巨大な排水穴を物理的に塞ぎ、水を止めている異様な存在がいた。


 どうやら、あれが穴を塞いだ犯人のようだ。


「……なるほど、巨大なわかめか」


 そこにいたのは、『わかめの魔人』――

 揺らぎのケルピアと呼ばれる魔人だった。


 筋骨隆々とした逞しい男の姿をしているが、その頭髪は長い緑色の海藻のように水中で広がり、常にゆらゆらと不気味に揺れている。そいつの肉体そのものが、動物ではなく植物質の繊維で構成されているらしい。


 ケルピアの再生能力は異常なほど高く、自身の体から際限なく伸びるわかめを引きちぎっては、それを穴を塞ぐためのパテ代わりの資材として次々と蓄え、水圧を押し留めている。


 あのわかめを一気に流し込めば、運が良ければ穴が目詰まりを起こすという寸法なのだろう。


 結界の内側からは、樹木の魔人たちも根や蔦を鋭く伸ばし、ケルピアを排除しようと攻撃を仕掛けている。

 だが、ケルピアの周囲には護衛の魔人たちが分厚い陣形を組んでおり、彼らに妨害され、手出しできないでいる状況だった。


(さて、どう料理するか……)


 普通に考えれば、結界に接近し穴を空け直すのが筋だ。

 だが、この巨大水槽に接近して新たな穴を空ける行為自体が、実は極めて命がけの作業となる。


 『魔封印』で結界に穴を空けた瞬間、内部の莫大な水圧が解放され、ジェット機並みの恐るべき速度と破壊力を持った水流が刃となって噴き出してくる。


 少しでも逃げ遅れれば、俺の体など簡単に両断されてしまう。

 そのため、穴を空けた瞬間に転移で逃げなければならない。


 なおかつ、敵も馬鹿ではない。

 俺が再び結界に接近し、穴を空けに来ることを見越して、結界の表面付近に何らかの罠を張っている危険性も十分に考えられる。


 護衛との無駄な戦闘や、罠にかかるリスク、そしてジェット水流の脅威。

 これらをすべて同時に回避し、目的を達成するための最適解は一つしかない。


 文字通り、敵が認識すらできない『一瞬』で、すべてのけりを付けることだ。



 ***


「少し荒療治になる。お前は種に戻れ、デメテル」


「えっ? ちょっと、もうっ! 忙しい男ね――」


 種に戻ったデメテルを胸ポケットに収める。


 俺は己の肉体を純粋なエネルギー体へと変換する究極の変身魔法『タイプ・フェノメノン』を発動させた。


 視界が白黒に反転し、重力の縛りが消失する。

 俺の肉体は、パチパチと紫色の火花を散らす、圧倒的な破壊力を持った『黒雷』そのものへと変貌を遂げた。


 エネルギー体となった状態であっても、対象の魔力を削り取る『魔封印』の特性はオートで機能する。


 準備は万端だ。


 シュンッ!!!


 雷鳴が轟く間すら与えない、純粋な光の速度による超高速移動。

 黒雷と化した俺は、一直線に巨大な水槽の壁面へと肉薄した。


 深海領域の表面に激突する寸前、『魔封印』の力が敵の結界を球状に削り取り、直径二メートルの新たな大穴を穿つ。

 直後、凄まじい圧力で噴き出そうとする水流の刃が形成されるよりも早く、俺は反射的に上空へと極大のジグザグ軌道を描いて離脱した。


 接近。穿孔。離脱。

 接近。穿孔。離脱。


 水槽の周囲を守るケルピアや海棲魔人たちの目には、俺の姿など微塵も映っていないだろう。


 彼らにとっては、何の前触れもなく、ただ一瞬の閃光が走ったと同時に、自分たちの張った結界に次々と巨大な風穴が空いていくという、理解不能の怪奇現象にしか見えないはずだ。


 罠を作動させる暇も、防御魔法を展開する暇も与えない。


 光速の機動で水槽の周囲を乱反射しながら、俺はその暴力的なヒット&アウェイを、ほんの一秒未満の間に「百五十回」ほど繰り返した。


(――ふぅ。さすがに、かなりの魔力を持っていかれたか)


 目標の穿孔数を達成した俺は、水槽から十分に離れた上空で変身魔法を解き、再び人間の肉体へと戻った。

 少しだけ息が上がるが、成果としては上々だ。


(これだけ穴を空けておけば、たとえあの「わかめ野郎」にいくつかの穴を再び塞がれたとしても、二ヶ月後には確実に海水は抜けきっているはずだ)


 直後。

 雷の轟音と共に――


 どごぉおおおおおおおんっ!!!


 魔界の森に世界の終わりを思わせるような凄まじい振動が響き渡った。

 百五十箇所もの新たな大穴から、超高圧の海水が一斉に大瀑布となって噴き出し、地面を激しく打ち据える音。


 俺は眼下でパニックに陥っている魔人たちを一瞥すると、すぐに人間界へと帰還するための転移陣を展開した。


 後には、ただ圧倒的な暴力によって刻まれた百五十の痕跡だけが残されていた。

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