第356話 視察3
(ゼノス視点)
傲慢なブランシュフォール辺境伯のプライドを完膚なきまでに叩き折り、彼にエルフとの半永久的な和平という強固な首輪を嵌めてやった夜。俺は久々に自室の柔らかいベッドへと潜り込み、泥のような深い眠りについた。
翌朝。
窓の隙間から差し込む柔らかな朝日と、遠くでさえずる小鳥の声で目を覚ました俺は、ベッドの上で大きく伸びをした。
昨日の血生臭い戦場や、悪徳貴族の顔を引き攣らせた快感が、すっかり朝の清々しい空気の中に溶けていくのを感じる。
「さて……他の地域の確認といくか」
独りごちて身支度を整えた俺は、各地の視察へと赴くことにした。
本日の予定は、自身の統治下にあるドワーフ領、会社を構えているザルツ山脈のふもと、そして獣人の森と隣接する要衝・ヴァランティーヌ侯爵領の三箇所だ。
空間転移の魔法を展開し、視界が歪んだ次の瞬間。
俺の鼻腔を突いたのは、むせ返るような鉄と石炭の匂い、そして活気あふれる重厚な槌音だった。
最初に降り立ったドワーフ領は、すっかり平穏な日常を取り戻していた。
本来ならばモンスター・スタンピードの脅威に晒されてもおかしくない立地だが、防壁の前に鎮座する俺の分体――巨大な『キラー・マシーン三号機』が、山のように押し寄せる魔物を文字通り力押しで押しとどめ切ったのだ。
鋼鉄の装甲には無数の傷や魔物の返り血がこびりついているが、それが逆に砦に駐屯するドワーフたちにとって、頼もしい守り神として見られているらしい。
さらに状況を好転させたのは、隣接するクロウリー公爵家と、リアム王子が共同戦線を張り、湧き出た魔物の大群を見事に大規模殲滅してみせたことだ。
もともとこの領内自体には被害が出ていなかったため、周辺地域からの脅威が完全に去ったことで、ドワーフたちの不安心理もすっきりと取り除かれている。
鍛冶場から聞こえる笑い声が、何よりの証拠だった。
***
次なる目的地へ向かうため、俺は再び転移魔法を使った。
向かった先は、ザルツ山脈のふもとに位置する活気ある町、グラードだ。
転移を終えると、周囲の空気と景色がガラリと変わった。
ドワーフ領はまだ昼過ぎで太陽が高く昇っていたというのに、距離の離れたこちらは時差の関係で、すでに空が茜色に染まる夕刻を迎えていた。遠くの山並みが、夕日に照らされて美しいシルエットを描いている。
俺は町の路地裏を抜け、馴染みの魔物解体師であるベアリス・ロワの工房へと足を運んだ。
扉を開けると、魔物の血と内臓の独特な鉄錆びた匂いに混じって、それを誤魔化すための強い薬草の香りが漂ってくる。
「ふん、こんな夕暮れ時にどうした?」
作業台の前で血まみれのエプロンを外し、額の汗を拭いながら、ベアリスが色っぽい流し目を送ってきた。相変わらず、無造作な仕草の中にも大人の女特有の濃厚な色香を漂わせている。
俺は彼女から、この周辺地域の最新の情勢と、解体に持ち込まれる魔物の種類に変化がないかを細かく確認した。
どうやら、この界隈では特に変わった脅威は発生していないらしい。
(……せっかく足を運んだんだ。このまま彼女の腰を引き寄せ、奥の部屋でたっぷりと可愛がってやりたいところだが)
男としての素直な欲求が頭をもたげる。
だが、俺は微かにため息をつき、その衝動を理性の奥底へと押し込めた。
今は何よりも、世界規模の戦況チェックが優先だ。
一歩判断を誤れば、取り返しのつかない事態に陥る盤面なのだから。
俺は名残惜しそうにするベアリスの頬を軽く撫でるだけで済ませ、夕闇の迫る町を後にした。
***
最後に俺が転移したのは、ヴァランティーヌ侯爵の居城がある城塞都市だった。
到着した頃には、すでに日が沈みかけ、空は深い群青色から夜の闇へと沈み込もうとしていた。城壁には無数の松明が焚かれ、張り詰めた緊張感がピリピリと空気を震わせているのが肌で感じられる。
慌ただしい城内を通り抜け、領主への面会を求める。
緊急事態の最中であり、しかも夜の帳が下りるという非常識な時刻であったにもかかわらず、侯爵は嫌な顔一つせずに面会に応じてくれた。
「おお、これは漆黒の魔剣士殿。ご活躍の噂は、この辺境まで轟いておるぞ。魔物の大軍勢から、単機で見事に帝都を守り抜いたそうではないか」
執務室に招き入れられるなり、目の下にくっきりと隈を作ったヴァランティーヌ侯爵が、疲労の色を隠せない顔に微かな希望の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
俺はこの地においては、ゼノス・グリムロックとしてではなく『漆黒の魔剣士』で通っている。
「あの程度の有象無象の群れなど、私にとっては造作もないことですよ。……それで侯爵、こちらの守りの状況は?」
俺が低く落ち着いた声で本題を切り出すと、侯爵の顔から笑みが消え、厳しい表情へと戻った。
アドラステア帝国の最東端に位置する、アイゼンバルト辺境伯領。
あそこは今回のモンスター・スタンピードという未曽有の大規模災害に対処しきれず、すでに防衛線を突破され壊滅状態に陥っている。
そこと領地を接するこのヴァランティーヌ侯爵領が持ち堪えられなければ、帝国はさらに内陸部へと魔物の侵入を許すことになり、ドミノ倒しのように国が崩壊してしまう。
「我が領内にも被害は出ておるし、兵の疲弊も激しい。だが……何とか、ギリギリのところで持ちこたえることはできるだろう」
侯爵の力強い言葉に、俺は密かに安堵の息を吐いた。
魔物の群れには、知性を持った明確な「指揮官」が存在していない。
そのため、広大なアイゼンバルト辺境伯領の残骸に留まって獲物を貪っている個体も多いだろうし、ここ以外の隣接する領地を目指して散開した個体もいるはずだ。
敵の圧倒的な戦力が分散されているおかげで、防衛戦の難易度が下がり、やりやすくなっているのだ。
数が多いとはいえ、押し寄せてくるのは個体としては弱い魔物の群れだ。
強固な城壁と、指揮系統の保たれたしっかりとした防衛体制を取れば、人類側もそう簡単に後れを取ることはない。
(……だが、油断はできない)
魔人アシュラフはこう宣言した。
『人類の半数を生贄にして、古の魔王を復活させる』と。
今のところ、各地の防衛線は保たれており、人類の半数が死に絶えるような絶望的な兆候はまだ見られない。
魔人の吐いた言葉がどこまで真実かは分からないが、それを信じるのであれば、計画の発動条件である「半数の死」にはまだ遠く及んでいないということだろう。
***
「……ご苦労をおかけします、侯爵。どうかこのまま、防衛線を維持してください」
俺は漆黒の外套を翻し、ヴァランティーヌ侯爵に短く別れを告げた。
人間界の各拠点は、俺が直接手を下さずともなんとか持ち堪えられている。ならば、俺が為すべきことは一つだ。
城塞都市の喧騒から離れ、人気のない町の外れへと出た俺は、夜空を見上げた。
ここから先は、人間の及ばない領域。
諸悪の根源である魔界の戦場だ。
現在、魔界では『樹木の魔人』と『魔人オルカス陣営』という、強大な化け物同士による血で血を洗う戦争の真っ最中である。
(さて……あちらの戦局は、どう動いているかな)
口元に好戦的な笑みを浮かべながら、星の瞬く空を見上げる。
そして、冷たい夜風と共に、俺の身体は魔界の森林地帯へと音もなく転移していった。




