第355話 正義に縋る悪人
(ブランシュフォール辺境伯視点)
世界規模で突如として発生した、未曽有のモンスター・スタンピード。
我がブランシュフォール辺境伯領もまた、その理不尽な厄災の直撃を受けた。
数千、いや数万にも及ぶ魔物の大群に居城を包囲され、防壁は砕ける寸前。間違いなく領地ごと滅亡の危機に立たされていたと言っていい絶望的な状況だった。
そこに、思いもよらぬ「援軍」が現れ――
結果として、領地の危機は去った。
城を囲んでいた魔物は一匹残らず一掃され、今は領民たちによる死骸の片付けと復旧作業が急ピッチで進められている。
だが、私の心に喜びなど微塵も湧いてはこない。
安堵の息を吐くことすら恐ろしい。
なにしろ私は、城を囲んでいた数万の魔物の群れなど取るに足らないほどの、純粋で、底知れず、圧倒的な力を持った『恐るべき悪魔』に、完膚なきまでに蹂躙され、絶対的な支配下に置かれてしまったのだから。
ゼノス・グリムロック。
名門グリムロック辺境伯家の次男として生まれながら、貴族の証である魔力を一切持たないゴミ。「ゼロの敗北者」と呼ばれ、国中から蔑まれていた男。
だが、その評価はすべて、奴が意図的に流したのだろう。
それは周囲を欺くための、ただの隠れ蓑に過ぎなかった。
出来損ないの忌み子であるはずのそいつは、私の得意とする高位の闇魔法すら児戯に等しいと思わせるほどの、恐るべき実力を隠し持っていたのだ。
卑怯にも何年もの間、無害な無能のふりをして爪を隠し続けてきた、狡猾で底知れぬ本物の化け物だったのだ。
ビクッ、と。
不意に、額から指先を通じて全身の神経を焼き切られたような、あの凄まじい痛みの記憶がフラッシュバックし、私の身体は大きく跳ねた。
同時に、魂の奥底まで完全に凍りつき、自身の生命の熱がすべて奪い去られてしまったかのような、あの絶対的な闇の魔力の感触が蘇る。
あの日、泥水の中に這いつくばって屈辱的な契約を結ばされてから、すでに数日が経過しているというのに、未だに恐怖が全く抜けない。
ふとした瞬間に、悪霊に憑りつかれたかのように身体の芯がガタガタと震え出し、死の冷たさが思い出したかのようにぶり返してくるのだ。
***
極度の睡眠不足と、すり減った神経による疲労困憊の顔を引きずりながら、私は逃げるように自身の薄暗い書斎へと籠もった。
分厚いオーク材の扉に厳重に鍵をかけ、窓のカーテンを隙間なく閉め切り、ようやく少しだけ息を吐く。
ガタガタと震える手でインク壺の蓋を開け、最高級の羽根ペンを握りしめた。
手紙を書くのだ。
あの悪魔の支配から抜け出し、私の地位と命、そしてブランシュフォール家の誇りを取り戻すための、唯一にして最大の対抗策。
宛先は、この国の輝かしい希望――
リアム・アースガルド第一王子殿下だ。
王都から遠く離れたこの辺境の地であっても、第一王子の目覚ましい活躍の数々は嫌というほど伝わってきている。
去年の夏の終わりに発生したという、強大な「氷結の魔人」の単独撃退。
さらに、今回世界中で同時多発的に発生した魔物の大量発生の鎮圧にも自ら騎士団を率いて迅速に取り掛かり、各地で成果を上げているという。
光の神に愛され、神聖なる天使すら召喚できるという、文字通りの英雄。
彼に、あのゼノス・グリムロックという深淵の悪魔の存在を、一刻も早く知らせなくてはならない。
ペン先を羊皮紙に走らせながら、私の胸中にはある種の使命感にも似た思いが湧き上がっていた。
情報を提供し、王家の助力を乞う。
それが、あの化け物を滅ぼすための唯一の道だ。
***
実のところ、私は元々、今の王家というものを全く快く思ってはいなかった。
奴隷制度を段階的に廃止しろだの、エルフやドワーフといった他種族と手を取り合って共存しろだのと、長年培ってきた貴族の特権を真っ向から否定するような不快な綺麗事ばかりを押し付けてくる、お花畑の連中だ。
彼らの理想論は、現場で領地を経営し、泥水をすすって国境を守ってきた我々辺境の貴族からすれば、ただの迷惑な足枷でしかない。
いっそ近隣の領主たちと結託して反乱でも起こし、王都の干渉を受けない自分だけの自由な国を打ち立てたいとさえ、本気で考えていた時期もあったほどだ。
だが、今はそんな政治的な思想信条を口にしている場合ではない。
あのゼノス・グリムロックという得体の知れない悪魔は、そんな私の野心すら一瞬で吹き飛ばすほどの、規格外の脅威なのだ。
なんとしても、どれほどいけ好かない王家と手を組むことになろうとも、奴だけはこの世から完全に滅し、消し去らなければならない。
さもなくば、この国全体が、いずれあの悪魔の黒い影に飲み込まれてしまう。
(……くくっ。それにしても、あの邪悪な小僧め。圧倒的な力を持ちながら、決定的な詰めが甘い)
私は震える唇を歪め、引き攣った笑みを漏らした。
あのゼノスという男は、見事に慢心している。
屈辱的な不可侵条約や財産管理の契約を私に結ばせておきながら、この城に監視の兵や魔法的な見張りを一切残さずに引き上げていったのだ。
己の圧倒的な強さを過信し、恐怖だけで私を完全に支配した気になり、監視の目を怠っている。
このアルビオン・ディ・ブランシュフォールが、恐怖に屈して二度と逆らうことはないと、完全に高をくくって私を侮っている証拠だ。
その舐め腐った隙が、貴様の命取りになるのだと思い知らせてやる。
***
カリカリ、カリカリ。
静まり返った書斎に、焦燥に駆られたペンシル音が響き続ける。
私は手紙に、ゼノスの持つ脅威を克明に書き連ねていった。
ゼノス・グリムロックが魔力ゼロという偽りの中に隠し持っている、とてつもなく邪悪で強大な闇の魔力のこと。
常識を覆す不可思議な魔法の数々を操ること。
去年の春に王都をパニックに陥れた原因である謎の巨人「鋼鉄の魔人」を、傘下に収めて使役していること。
そして何より、我が辺境伯領の財産や経営に不当に口出しをして内政干渉を行っているのみならず、長年の敵対国であるエルフ族との外交関係にまで勝手に介入し、国交の決定権という『王家の絶対的な権限』を完全にないがしろにしているという、大逆罪に等しい事実。
この事実を知れば、いかに綺麗事を並べる王家であっても、ゼノスを国家の存亡を脅かす「最優先の排除対象」として認識せざるを得ないはずだ。
……分かっている。
私自身が、世間一般の道徳に照らし合わせれば、強欲で冷酷な「悪」とされる領主であることくらいは。
しかし、国家を裏で支配しようと企むより巨大な「悪」が出現した今、私は自らの身の安全を確保するため、正義を振りかざす王家と共闘する道を選んだのだ。
私単独の力では、あの理不尽な悪魔には到底対抗できない。
だが、人類の希望たるリアム王子が、その絶大な光の力と国家の軍勢をもって立ち上がってくれれば。彼という圧倒的な『正義』と共闘し、彼を上手く利用することができれば、あの悪魔を駆除することは十分に可能かもしれない。
もはや、神に祝福された王子に、私の生き残る希望のすべてを託すしかなかった。
「……入れ」
手紙に蝋を垂らし、ブランシュフォール家の紋章印を重々しく押し当てた後、私は扉の外に控えていた長年の腹心である老執事を呼び入れた。
「お呼びで……っ!? 旦那様、そのお顔色は……!」
扉を開けた執事が、私の顔を見るなり弾かれたように息を呑む。
無理もない。
鏡を見ずとも、今の私が今にも死にそうな、血の気の一切ない土気色の顔をしていることくらい自覚している。
「……何も聞くな。これを、最も信頼できる早馬の者に持たせよ。行き先は王都、リアム王子殿下の元だ」
私は震えの止まらない冷たい手で、厳重に封をされた手紙を執事へと差し出した。
この一通の手紙が、私の――そして、あの傲慢な悪魔の運命を決めるのだと、虚勢の裏に隠した祈りのような思いを込めながら。




