第354話 屈辱の従属
(ブランシュフォール辺境伯の視点)
鼻腔を突く血と泥のひどい悪臭。
そして、城壁の下に広がる夥しい魔物の死骸の山。
私は今、己の人生において最大にして最悪の屈辱の只中に立たされていた。
領土の南東に位置する魔物の湧き点から、突如として溢れ出した無数の魔物たち。
波のように押し寄せるその大群に我が誇り高き領土を蹂躙され、堅牢な城壁すらも破られようとしていた滅亡寸前の窮地を――
あろうことか、魔力ゼロの無能な小僧に救われてしまったのだ。
ゼノス・グリムロック。
我が国でも有数の名門であるグリムロック辺境伯家に生まれながら、貴族の絶対条件である魔力を一切持たずに生まれてきた、唾棄すべき落ちこぼれの出来損ない。
あろうことか、その薄汚い無能が、この高貴なる私を見下ろしながら、小馬鹿にしたような態度で話しかけてきたのだ。
『久しいな。ブランシュフォール――俺の傘下に入るのであれば、命は助けてやる』
なんという無礼。
なんという身の程知らずの増長だろうか。
血の気が引き、視界が赤く染まるほどの怒りが腹の底から込み上げてくる。
なるほど、確かに眼前には、見たこともない白銀の巨大な魔像が鎮座しており、それが数万の魔物を単機で屠ったのは事実だ。
どうやら、グリムロック家が金に飽かせて雇った高レベルの魔物使いか何かが密かに同行しており、あの見慣れぬ巨人の魔物を暗闇から従えているのだろう。
だが、それは決して貴様の力ではない。
お前自身は、魔法の一つも使えないただの脆弱な雑魚だ。
家の権力によって有能な部下をあてがわれたからといって、それを自分の真の実力だと勘違いしてふんぞり返っている。
私は、この世で最もそういう手合いを嫌悪しているのだ。
自分が強いと勘違いした、哀れで『偉そうな弱者』め。
この私を呼び捨てにし、あまつさえ降伏を勧告した大罪。
決して許してはおけない。
あの巨人を操っている正体不明の術者を始末するか、あるいは捕らえて私の配下に寝返らせ、敵の最大の戦力を奪い取ってやる。そうすれば、あの虚勢を張った無能な小僧など、私の指先一つでひねり潰せる。
私が防壁の上から兵士たちに周囲を探索するよう命じた、まさにその直後だった。
私の思考を超越する、思いもよらない出来事が連続して起こったのは。
***
「な、消え――っ!?」
巨人の分厚い肩の上に座っていたはずのゼノス・グリムロックの姿が、唐突に掻き消えたのだ。
魔力の発動の気配すらなく、まるで初めからそこに存在しなかったかのように、文字通りフッと空間から消失した。
(……何が起きた? まさか、あの巨大な肩の上から足を滑らせて落下したのか? だとしたら、あまりにも滑稽だ。私の手で始末する手間すら省けたというものだが)
己の常識の範疇でしか物事を測れなかった私は、そんな都合の良い、あまりにも現実逃避じみた推論を脳裏に浮かべていた。
『こっちだ』
突如、私の真後ろ、耳元から囁き声が聞こえた。
振り返る暇など微塵もなかった。
首筋に、とんっ、という軽い手刀の打撃を受ける。
「ひぐあっ!?」
素っ頓狂な声が喉から漏れた直後、今度は立て続けに膝裏へと鋭い蹴りを叩き込まれた。
いずれも、骨を砕くような強力な一撃ではない。
だが、人間の身体構造の隙を完全に突いた嫌らしい攻撃であり、完全に意表を突かれた私はなす術もなく身体のバランスを崩してしまった。
無様に宙を舞った私の身体は、大勢の兵士たちが呆然と見守る中、血と泥に汚れた城壁の石畳の上へと、無残な尻餅をついて転がった。
私の怒りは、ここでついに臨界点を突破した。
(おのれ……おのれ、おのれえええええっ! 魔力を持たぬゴミ屑が、この私をおちょくりおって!!)
誇り高き辺境伯である私が、大勢の部下たちの目の前で、背後から子供の悪戯のような攻撃を受け、泥水の中に這いつくばらされるという致命的な失態を演じてしまった。
このままでは、領主としての威厳など木っ端微塵だ。
***
這いつくばったまま、私は震える手で自身の魔法の杖を握りしめ、強烈な殺意と共に魔力を限界まで練り上げた。
私が最も得意とする高位の『闇魔法』。
この一撃で、目の前で私を見下ろしている狼藉者を、骨の欠片すら残さずに跡形もなく消し飛ばしてやる。
そうしなければ、私の辺境伯としての権威は永遠に地に堕ちてしまう。
冷静な思考など、完全に吹き飛んでいた。
ただ咄嗟に、怒りのままに攻撃魔法を放とうとしていたのだ。
この時の私は、あまりにも愚かだった。
ゼノス・グリムロックが『魔力の気配すら一切感知させず、どうやって瞬時に私の背後を取ったのか』。そして、もし彼に本気で私を殺す気があったのなら、『最初の手刀の時点で、私の首など容易く切断することができたはずだ』ということ。
そうした、為政者として、あるいは魔法使いとして最も警戒すべき決定的な事実から、完全に目を逸らしてしまっていた。
なぜなら、目の前に立つこの落ちこぼれの少年は、見た目があまりにもひ弱そうで、「魔力ゼロの無能である」という先入観が私の目を極限まで曇らせていたからだ。
だから私は、愚かにも杖を振り上げ、攻撃の意思を見せてしまった。
しかし、相手の制圧の方が、ずっと早かった。
私が練り上げた魔力で魔法を展開しようとした瞬間、私の額に冷たい指先がピタリと押し当てられ、同時に全身の神経を焼き切るような凄まじい痛みが走った。
バチッッ!!!
「うぎゃぁぁぁっ!!!」
指先から流し込まれたのは、紫電を纏う異常な魔力。
それと同時に私は、とてつもなく邪悪で、底知れず、途方もなく巨大な『おぞましい魔力の深淵』に、直接魂を触れられてしまった。
(あ、ああ……あぁ……っ!)
自身が闇魔法を得意としているからこそ、その異常性が誰よりも理解できてしまった。
私がこれまで研鑽を積んできた闇魔法など、太陽の前にかざした一本の脆弱なマッチの火に過ぎない。
目の前にいるこの少年は……魔力ゼロの無能などでは決してない。魔物の大群など比較にならないほどの、人間の皮を被った純粋な「災厄」そのものだ。
***
自分は先ほど、なんて恐ろしい真似をしようとしていたのだろうか。
激しい後悔が、どす黒い津波となって押し寄せる。
もし、あのまま私が魔法を展開しきっていれば。
もし、彼がほんの少しでも機嫌を損ねていれば。
目の前の邪悪な男は――
この程度の痛みでは絶対に済まさず、私の身体はおろか魂ごと、この世から消し去っていたに違いないのだから。
紫電のダメージで身体が痺れて全く動かない。全身の筋肉が軋むように痛むが、もはやそんな肉体的な損傷など、どうでもよかった。
この男の「深淵」に比べれば、私がこれまで築き上げてきた地位も、名誉も、力も、すべてが取るに足らないちっぽけな塵芥でしかない。
私の心は、完全に圧し折られた。
残ったのは、圧倒的な存在に対する原始的な畏怖と、恐怖と――果てしない絶望だけだ。
「あ、あう……ひぐっ……お、お許しを……どうか、命だけは……っ」
気が付けば私は、泥水の中に無様に這いつくばったまま、口の端から涎を垂らし、ボロボロと大粒の涙を流しながら、靴のつま先に顔を擦りつけて許しを乞うていた。
先ほどまでの高慢な貴族の面影など、見る影もない。
そして私は、ゼノス・グリムロックが冷酷な声で提示した「領地を救った対価(首輪)」を、ただ唯々諾々と受け入れることしかできなかった。
一つ、長年敵対していたエルフ族との、無条件かつ永続的な相互不可侵条約に直ちに同意すること。
一つ、ブランシュフォール家が溜め込んでいた全私財をゼノス・グリムロックの管理下に置き、領地復興の優先順位を「辺境伯の権威回復」ではなく「領民の生活再建」を最優先とすること。
それは、私の実質的な敗北と、領主としての権利の剥奪を意味する、あまりにも屈辱的な内容だった。
だが、今の私には、それに逆らうだけの気力も、勇気も、何一つ残されてはいなかった。ただ震える手で、絶望という名の契約書にサインをするほかに、私が生き残る道はなかったのだ。




