第353話 アップデート
視界を埋め尽くしていた夥しい魔物の大群は、今やただの物言わぬ肉塊の海へと変わり果てていた。
城塞都市を完全に包囲し、絶望の淵へと追いやっていた軍勢は、ものの数十分で完全に討ち果たされたのだ。
もちろん、俺自身が派手に魔法を放って暴れ回ったわけではない。
実際に群れを蹂躙したのは、俺の足元で静かに駆動音を唸らせている全長五メートルの巨大な兵器――『キラー・マシーン二号機(鋼鉄の魔人)』だ。
俺はただ、その分厚い鋼鉄の肩の上に座り、流れる血の景色を高みの見物と洒落込んでいただけにすぎない。
だが、防壁の上からこの一方的な殺戮劇を見守っていた連中からすれば、どう見えるか。「見ず知らずの不審人物が、凶悪な巨大怪物を従えて魔物を駆逐した」という構図にしか見えないだろう。
ブランシュフォール辺境伯領を守る兵士たち、そして領主であるアルビオン・ディ・ブランシュフォール自身の顔にも、俺に対する底知れぬ畏怖と困惑がはっきりと見て取れた。
ふと空を見上げると、俺がこの地に駆けつけた時には空を赤く染めていた夕日はとうに沈み、辺りはすっかり深い夜の闇に包まれていた。
生臭い血の匂いを運ぶ冷たい夜風が吹き抜ける中、城壁に設置された松明の炎だけが、暗闇の中で揺らめきながら俺たちを照らし出している。
***
ズゥン……ズゥン……。
静まり返った戦場に、鋼鉄の魔人の重々しい足音だけが響き渡る。
俺が機体を歩ませてゆっくりと城壁に近づいていくと、防壁の上にずらりと並んだ兵士たちが、一斉に弓を引き絞り、あるいは震える手で攻撃魔法の詠唱を準備した。
だが、誰一人として攻撃を放とうとはしない。
眼下の魔物の群れを紙屑のように粉砕したこの五メートルの巨人を前に、無分別な先制攻撃を仕掛けることがいかに愚かな自殺行為であるか、本能で理解しているらしい。
「ま、まてっ! それ以上近づくな!!」
張り詰めた沈黙を破ったのは、堪えきれなくなったように声を張り上げたアルビオンだった。
その声には、貴族としての威厳を取り繕おうとする必死な虚勢と、隠しきれない焦燥が入り混じっている。
だが、鋼鉄の魔人はその制止など意に介することなく無慈悲に歩を進め、ついに城壁のすぐ目の前でピタリと停止した。
五メートルという規格外の巨体。
その肩に乗っている俺は、城壁の上に立つアルビオンたちを、ほんのわずかに見下ろす形となる。
俺は足を組み直し、冷徹な視線を辺境伯へと真っ直ぐに突き刺した。
「久しいな。ブランシュフォール――俺の傘下に入るのであれば、命は助けてやる」
挨拶もそこそこに、いきなりの呼び捨て。
そして、一切の交渉の余地を与えない傲慢な降伏勧告である。
本来であれば、大貴族に対して無礼にもほどがある物言いだ。
だが、今の俺はこの場において、数万の魔物すら凌駕する圧倒的な「暴力」そのものを背負っている。
強気に出たところで、何の問題もない盤面だ。
***
「なっ……ず、図に乗るなよ、小僧がっ!!」
俺の言葉に、アルビオンは屈辱で顔を真っ赤に染め上げ、声を荒らげた。
「そのふざけた魔物はなんだ。貴様が使役しているとでも言うつもりか!? 馬鹿な、魔力ゼロの落ちこぼれであるお前に、そんな高度な真似が可能なはずがない! 操っている本物の術者が、必ずこの近くに隠れているはずだ! ――ものども、何をしている! 周辺を探し出せ、そう遠くにはいないはずだ!!」
辺境伯のヒステリックな指示を受け、兵士たちが慌てて松明を掲げ、周囲の暗闇を照らし始めた。
……なるほど。
どうやらこの男の脳内では、俺――ゼノス・グリムロックという存在は、いまだに「魔力ゼロの無能な落ちこぼれ」という古い情報のまま止まっているらしい。
近頃の俺は、王都ではその圧倒的な実力を隠すことなく行動している。
だが、通信手段が限られるこの世界では、情報の伝達は俺が思う以上にまばらで遅い。
まして王都から遠く離れたこの辺境でふんぞり返っていた彼の耳に、俺の最新の悪名が届いていないのも無理はない。
自身の常識から外れた異常事態を前に、「本物の術者は他にいる」と思い込むことで、必死に精神の均衡を保とうとしている。
無能なガキに脅されて屈するわけにはいかない――
そんな哀れなプライドが働いているのだ。
(……やれやれ。ならば、俺の手で直接“アップデート”してやるか)
俺は呆れたように小さく息を吐き、巨人の肩から静かに立ち上がると、音もなく空間転移の魔法を発動させた。
***
シュンッ、と。
鋼鉄の魔人の肩の上から、俺の姿が唐突に掻き消えた。
「な、消え――っ!?」
前触れのない消失に、アルビオンが目を剥いて狼狽した、次の瞬間。
「こっちだ」
俺はすでに、城壁の上に立つアルビオンの真後ろに降り立っていた。
耳元で囁きながら、俺は振り返ろうとした相手の首筋に向けて、後ろから『とんっ!』と軽く手刀を入れる。
「ひぐあっ!?」
素っ頓狂な悲鳴を上げたアルビオンの膝裏に、間髪入れずに容赦のない子供の遊び「膝カックン」をくらわせた。
魔法すら使わない、ただの悪ふざけのような物理攻撃。
だが、それゆえに効果は絶大だった。
完全にバランスを崩したアルビオンは、情けない声を上げながら石畳の上に無惨に尻餅をついた。泥と血に汚れた床に這いつくばるその姿は、先ほどまで気取っていた威厳ある悪徳貴族の面影など微塵も残っていなかった。
「き、きさまぁ……何だ、今の手品は……っ」
「動くな」
前に回り込んだ俺は、這いつくばる辺境伯の額に、人差し指をピタリと押し当てた。
その指先には、暗闇の中で不吉な紫色のスパークを放つ『黒雷』が内包されている。
(スタンガンみたいなものだな)
バチッッ!!
「うぎゃぁぁぁっ!!!」
僅かに流し込んだ高圧の電力に、アルビオンの全身が大きく跳ねた。
感電した彼は白目を剥きかけ、恐怖で後ずさろうとするが、全身の筋肉が完全に痺れきっており、指先一つ動かすことができない。
周囲の兵士たちも、瞬きする間に主君が制圧された異常事態に凍りつき、誰一人として武器を構えることすらできなかった。
「……時代遅れのアンタに、一ついい情報を教えてやろう」
俺は冷や汗を流して荒い息を吐くアルビオンを見下ろし、氷のように冷たい声で囁いた。
「この巨人は“鋼鉄の魔人”。そこらの魔物使いが扱えるような代物ではない。俺の圧倒的な武力の前にひれ伏し、魔人オルカスを裏切って――今では俺の直属の部下だ」
息を吐くように――
即興で作り上げた壮大な虚構を、辺境伯の脳髄へと流し込む。
真偽など確かめようがない。
だが、背後にそびえる五メートルの怪物よりも俺が強大であるという“結果”を、つい先ほど身をもって思い知らされたアルビオンにとっては、それは信じるしかない絶望的な現実として深く刻み込まれたはずだ。
城壁の上には、ただ静寂だけが満ちていた。
そしてその静寂を支配していたのは、俺という底知れぬ存在への純粋な恐怖だった。




