第344話 人間界の情勢
魔界での苛烈な戦闘を終えた俺は、いつものように空間を跳躍し、ザハラ王国の悪徳大臣・カリムの所有する壮麗なハレムへと転移した。
視界が切り替わると同時に、肌を撫でる空気が一変する。
血と泥、そして濃密な魔力にまみれた魔界の重い空気から、カラリと乾燥した砂漠特有の風へと変わった。
広大なプールサイドに降り立つ。
いつもなら、美しい装飾品を身に纏った数多の美女たちが嬌声を上げながら水遊びに興じている場所だが、今日の昼間は異様なほどに静まり返っている。
人がいない。
完全に無人だった。
水面が風に揺れ、キラキラと太陽の光を反射する音だけが響いている。
無理もない。
この砂漠の国・ザハラ王国は現在、未曾有の魔物による大規模侵攻の脅威に晒されている真っ最中だ。
流石の悪徳大臣カリムであっても、今は酒池肉林のバカンスを楽しんで遊んでいる暇などないのだろう。
俺はため息を一つ吐くと、服を着たままの状態で、透き通るような青いプールへと無造作に飛び込んだ。
――ザパァンッ!
ひんやりとした冷たい水が全身を包み込み、酷使した筋肉の熱を奪っていく。
水の中で軽く手足を動かし、こびりついた魔界の泥や魔物たちの返り血といった「戦闘の汚れ」を大まかに洗い落とす。
「シルフィー、頼む」
心の中で呼びかけると、俺に付き従う守護精霊シルフィーが即座に応えた。
淡い緑色の光が水中に溶け込み、俺の体から流れ出たドス黒い汚れがあっという間に分解され、プールの水は再び元のクリスタルのような透明度を取り戻していく。
精霊の力による完璧な浄化だ。
ここまでの一連の流れは、激戦を終えた後の俺にとって、すっかりお決まりのルーティンとなっていた。
***
ザバァッ、とプールから上がり、大理石の床に立つ。
すかさずシルフィーが魔法で風を送ってくれた。
魔封印の効果を最小にすれば、空気の流れはほぼ変わらないので、風を受けることができる。ずぶ濡れだった衣服と髪は数十秒で快適な状態へと乾ききった。
俺はプールサイドの寝椅子にどっかりと腰を下ろすと、遠くで待機していたハレムの門番に合図を送り、冷たい果実水を持ってこさせた。
「……カリムの出迎えは無しか?」
キンキンに冷えて水滴のついたグラスを受け取りながら、俺はわざとらしく尋ねた。
すると、厳つい顔つきの門番は、まるで主君に接するかのように深く頭を下げ、恭しく答えた。
「はっ。カリム様は現在、最前線にて魔物掃討戦の陣頭指揮をとられておりますゆえ、本日のところはどうかご勘弁を……」
「そうか。まあ、仕方ないか」
グラスに口をつける。
砂漠の熱気を忘れさせるような、甘酸っぱく冷たい果汁が乾いた喉を潤していった。
「俺の手配した『使い魔』は、役に立っているか?」
「それはもう、凄まじい働きぶりでございます! 漆黒の魔人殿が遣わしてくださったあの無敵の援軍によって、滅亡の淵にあったこの聖都は、現在も何とか持ちこたえております。我ら一同、感謝の言葉もございません!」
門番は興奮気味に、しかし心の底からの畏敬の念を込めてそう語った。
俺の残していった防衛兵器――『キラー・マシーン一号機』は、俺の期待通りに戦場で大立ち回りを演じ、無数の魔物をミンチに変えて大活躍しているらしい。
門番が俺に対してここまで好意的に、いや、ひたすらにへりくだって接触してくる理由もそこにある。
自国が魔物の群れに蹂躙され、滅びかけているという非常時に、ふらりと現れてプールサイドでバカンス感覚でくつろいでいる不審者がいれば、普通なら怒り狂って武器を向けるだろう。
しかし、圧倒的な戦力を無償で提供し、彼らの命と国を窮地から救い上げている絶対的な「恩人」となれば話は全く別だ。
どんなに態度が横柄であろうと、彼らは地面に額を擦りつけて感謝の念をもって歓待するしかないのだ。
(……ふん。この国の奴らの底意地の悪さと傲慢さには随分と苛立たされてきたが、死の淵を覗き見て、ここに来てようやく『恩人に感謝する』という人間の基本を覚えたようだな)
徹底的な力関係の逆転。
俺は門番から向けられる純度百パーセントの感謝と畏れの念に確かな満足感を覚えながら、グラスを空にした。
***
ザハラ王国での休息を終えた俺は、再び転移魔法を展開し、今度は自らの拠点である人間界の屋敷へと帰還した。
やはり自分のテリトリーの匂いは落ち着く。
自室の深く沈み込むようなソファーに身を預け、本当に心身をくつろがせて休息を取りながら、俺は使用人たちによって整理された「人間界の最新の戦況報告」に目を通していった。
最も気になっていたのは、アースガルド王国の情勢だ。
報告によれば、王国の希望であるリアム王子が、精鋭を率いて辺境の重鎮・クロウリー公爵領へと赴き、周辺を埋め尽くす魔物の掃討作戦を進めているらしい。
結果から言えば、そちらの戦況は非常に順調のようだ。
クロウリー公爵領は、突如としての魔物の大量発生により、辺境の多くの町や村が壊滅的な被害を受けるという悲劇に見舞われた。だが、領主が座す最も重要な要所である「城塞都市」の防衛には、見事に成功しているとのことだった。
俺はさらに詳しい戦いの様子の記述に目を走らせた。
どうやら、リアム王子の率いる本隊の援軍が駆けつけるまでの間、絶望的な防衛戦の先頭に立って魔法を振るい、最前線で大幅に魔物を間引いて時間を稼いでいた男がいるらしい。
――バルトロメウス・クロウリー。
あの公爵家の嫡男が、血みどろになって防衛線を死守していたのだ。
***
(……報告の話を聞く限り、『大規模な殲滅魔法』を使ったようだな)
その魔法の破壊規模と特徴的な光景の記述を見て、俺の脳裏に強烈な心当たりが閃いた。
それはかつて、俺からグリムロック家の嫡男の座を奪い取ろうとした、あの底抜けの『アホ・カス』が切り札として使っていた魔法と全く同じ性質のものだった。
――闇属性と光属性の魔力を、無理やり融合させて大爆発を引き起こす魔法。
光と闇、その二つの性質を同時に持つ者は稀だ。
本来なら決して交わることのない、相反し、互いに反発し合う属性魔力。
だが、自分の内に宿る魔力であれば、その二つを強引に融合させることができる。そうして生み出されるのは、絶大な破壊エネルギー。
――ほとんど自爆と紙一重の代物だ。
融合させる位置が自分から十分に離れていなければ、敵を吹き飛ばす前に、自らの肉体が消し飛ぶ。
(俺の知る限り、バルトロメウスは光属性の使い手だったはずだ。……あくまで状況証拠からの推測でしかないが、彼は後天的に『闇属性』の魔力に目覚めた、あるいは強引に引きずり出したのかもしれないな)
死の淵で己の殻を破り、禁忌の力に手を伸ばしてまで領地を守り抜こうとした男の執念。バルトロメウスが主要拠点を命がけで守り抜き、そこへリアム王子の強力な援軍が到着した。
この二つのピースが揃ったことで、クロウリー公爵領は最大の難所を乗り切ったとみて間違いないだろう。
アースガルド王国の地盤は、まだ崩れていない。
俺は手元の報告書を静かにテーブルに置き、次なる盤面に向けて密かに口角を上げた。




