第343話 博打を打つ場面ではない
魔界の奥深くに現出した、この世の地獄。
森を丸ごと飲み込むほどの常軌を逸した「巨大海水領域」の中では、今この瞬間も「樹木の魔人」たちと「オルカス陣営」による壮絶な死闘が繰り広げられていた。
圧倒的な水量をもって、自分たちにとって有利な水没バトルフィールドを構築したオルカスたち。
だが、だからといって一方的に相手を蹂躙できているわけではない。
水没を免れている超巨大樹も複数ある。
それに、樹冠のエリアに海の魔物たちが不用意に近づけば、濁流の下からうねるように伸びてきた巨大な蔦や鋭い木の根に瞬時に捕獲されてしまう。
大津波に乗って樹海へと侵攻してきた無数の半魚人や海竜たちは、森の中心にそびえ立つ大樹母の神樹や、周囲の森を削り取ろうと果敢に攻撃を仕掛けている。
だが、その多くが水中で身動きを封じられ、無残に養分として吸い尽くされていく。
オルカスを筆頭とした強力な海の魔人たちも黙ってはいない。
膨大な魔力を用いて海水を自在に操作し、岩をも砕く超高圧の水流や水圧弾によって神樹の幹を激しく打ち据えている。
「海水結界」の外にも轟音が響き渡るが、それでも天まで届くほどの超巨大樹の耐久力は並の魔法でどうにかなるものではない。分厚い樹皮の表面をわずかに削る程度のダメージしか与えられていないようだ。
魔人の操る水魔法の威力は確かに凄まじいが、森の生命力も底知れない。
戦況は、双方ともに決定打を欠く膠着状態に陥っていた。
オルカス陣営としては、無理に突撃して戦力をすり減らすより、このまま巨大結界で森全体を海水漬けにし続け、塩害で徐々に相手を弱らせる持久戦を選ぶしかないのだろう。
(……裏を返せば、この膠着状態を動かせる遊撃要員は、俺しかいない。俺の動きが、この勝負の行方を大きく左右することになるな)
***
俺は自身の気配を完全に断つ『隠密魔法』を維持したまま、空間を跳躍する『転移魔法』を発動させ、敵の巨大海水領域の壁面へと一瞬で接近した。
目の前に立ちはだかる、海水をせき止める見えない魔法の壁。
俺はそこに接近し、自身に備わっているチート能力『魔封印』の効果を結界に加える。パリンッ、という微かな破壊音と共に、直径二メートル程度の結界にぽっかりと円形の穴が空いた。
「よしっ」
俺は間髪入れずに再び転移を発動し、その場から瞬時に数百メートル後方へと離脱する。
直後、ドバァアアアアアッ!! という凄まじい爆音と共に、空いた穴から水深二キロメートル分の水圧の乗った海水が大砲のように勢いよく噴射された。
あらかじめ転移で回避していなければ、間違いなく再び鉄砲水に巻き込まれて全身の骨がきしむ羽目になっていただろう。
俺はこのヒット・アンド・アウェイを冷静に何度も繰り返し、敵の巨大結界の表面に、一定の間隔で複数の穴を空けてやった。
複数の小さな穴が空いた巨大結界。
それはまるで、規格外に巨大な「如雨露」だ。
それぞれの穴から凄まじい轟音を立てて絶え間なく流れ出た海水は、やがて合流して一本の濁流となり、オルカスたちが津波に乗ってやって来た方向――すなわち、すでに荒廃して木々がなぎ倒されているルートへと沿って流れ去っていく。
とはいえ、今こうして流出している水量は、結界内部の途方もない全体の海水量から見れば、ほんの些細なもの。
明日明後日で水が枯れるわけではない。
だが、この戦いが数日、数週間におよぶ長期戦となれば、この「垂れ流し」は確実にボディブローのように効いてくるはずだ。
***
この嫌がらせのような遅延攻撃を脅威と見た敵陣営も、黙って見過ごすわけがない。
結界の内側、濁った海水の向こう側に、警戒の任を帯びた「幹部クラス」の魔人たちが複数、見張りに現れたのが見えた。
彼らは、隠密状態にある俺の姿を直接視覚で捉えることはできていない。
だが、突然結界に穴が空き、水が噴き出せば、「その穴の延長線上の外側に術者がいる」ことくらいは容易に推測できる。
透明な壁の向こうで待ち構えている魔人たちの中に、ひと際異彩を放つ巨体が浮遊していた。
全身に無数の鋭利な棘を生やした、小太りな男の姿。
針千本の魔人、破裂のディオドンだ。
(……厄介な奴が出てきたな)
俺は木陰に身を潜めながら舌打ちをした。
あの全身の棘。
もし奴が結界の穴越しに、あの棘を散弾銃のようにバラ撒く「範囲物理攻撃」を飛ばしてきたら――海水の噴出よりも速ければ、転移による回避は困難だ。
下手な場所に当たれば、即死させられてしまう危険性が高い。
(いっそ、全身を『黒雷』に変身させて、結界の穴から水中に突撃すれば、見張りの幹部を感電させて仕留められるか……?)
一瞬、そんな好戦的な思考が頭をよぎる。
だが、俺はすぐに首を横に振った。
(一撃では無理だな……)
魔人の耐久力はけた外れだ。
雷の一撃で死なないことは、【猿王】ハヌマン・シャーとの戦いで分かっている。
それに――水の中で、あの変身魔法を使ったことは、未だかつて一度もない。
純粋な雷が海水を突き抜ける距離は、せいぜい200メートル程度。
もし水中に突入してエネルギーが拡散してしまったり、200メートル移動した時点で実体化してしまったらどうなるか。
俺は敵の巨大な「海水結界」のど真ん中に、生身の人間として捕らわれることになる。最悪の場合、広大な海水の中で雷のエネルギーのまま霧散して存在が消え失せるかもしれない。
運良く人間の姿に戻れたとしても、息継ぎなどできるはずもなく、暗く冷たい高水圧の中で絶望しながら溺れ死ぬだけだ。
(この結界に、俺の転移魔法を阻害するような高度な仕掛けがあるとも思えないが……)
万が一の事態になれば、俺にはゴブリンにダメージを押し付ける『身代わり術式』という保険がある。
だが、それはあくまで「保険」であって、無敵になる魔法ではない。
強烈な痛覚や苦痛は俺自身も味わうことになるし、なにより――わざわざ自分から好んで死に直結するような激痛を味わいたいわけではない。
***
結界を挟んで、お互いに不用意に手を出したくない、息の詰まるような睨み合いの状況。
俺がこのまま転移で結界の周囲を飛び回り続ければ、さらに多くの穴を空け、海水の流出を早めることはできる。
だが、それには大きなリスクが伴う。
これ以上無計画に穴を空ければ、まだ無事な青々とした森の方面にまで致死量の海水を流出させることになってしまう。
さらに言えば、俺の『魔封印』でこの巨大結界そのものを一気に崩壊させるような真似をすれば、俺たちも甚大な被害を受けることになる。
高さ二キロメートルの大質量が一気に決壊すれば、まんべんなく周囲の森をすべて押し流し、完全に生態系を破壊してしまう大惨事になるからだ。
皮肉な話だが、敵が「神木」という森の中心をターゲットに定めているからこそ、自らの手で周囲に結界を張り、あの膨大な海水を『一箇所に留めておいてくれている』のだ。
もし結界が壊れれば、こちらの方が圧倒的に困る状況なのである。
(……これ以上、中途半端に場を引っ掻き回すのは得策ではないな)
感情を廃し、理詰めでそう判断した俺は、迷うことなく結界から視線を外した。
ここは、不確かな博打を打つ場面ではない。
壮大なスケールで繰り広げられるこの持久戦は、まだ始まったばかりだ。
こちらが不利な膠着状態に、風穴を開けるという最低限の仕事は果たした。
「……一度、帰るか」
俺は誰に聞こえるでもなく小さく呟くと、人間界の自宅への『転移魔法』を展開した。
まずは安全な場所で、削られた体力と魔力を万全の状態まで回復させる。
それが、次なる死地を生き抜くための最も確実な一手だった。




