第340話 展開された領域
この世界を構築する基となったゲームにおいて、名実ともに「真のラスボス」として君臨していた存在。
それが、「シャチの魔人」――『絶海のオルカス』だ。
こいつの厄介さは、単なるステータスの高さや凶悪な魔法の威力だけではない。
その真の恐ろしさは、オルカス勢力が有する理不尽極まりない特殊仕様にある。
通常、人間界に現れたオルカス軍が進軍を開始すると、その影響で周辺のフィールド全体が完全に水で満たされた状態(領域展開)へと変貌してしまう。
そして恐ろしいことに、プレイヤー側が強固な防御陣地を構築していたとしても、まともなバトルパートすら発生することなく、問答無用で強制的にオルカス側の勝利となってしまうのだ。
そのため、シミュレーションRPGなどにおいて強敵と戦う際の「定石」とされる戦術が一切通用しない。
わざと相手を自陣に攻め込ませ、強固に防御を固めた砦で迎え撃ち、少数の守りで敵の数を減らしてじわじわと力を削ぐ。
そして疲弊しきった敵を、無傷の主力部隊で一気に叩く……というのが防衛戦のセオリーなのだが、そんな悠長な真似は許されない。
システム上、オルカス軍が展開する水没領域の中でまともに戦うことができるのは、ゲームの主人公であるリアム王子が直接率いる精鋭の軍勢だけなのだ。
そして、たとえリアム王子が参戦した場合であっても、決して楽な戦いにはならない。
バトルフィールドの半分以上は依然として深い海で埋め尽くされており、陸上ユニットの移動は極端に制限される。
プレイヤーは、辛うじて水没を免れた険しい山岳地帯を縫うように行軍しながら、群がる海の魔物の軍勢を少しずつ削り、最終的に最奥に控えるオルカスの討伐を目指さなければならないのだ。
リアム王子が持つ最強の光魔法の結界である「聖域」を展開することで、敵の領域展開の力を弱め、水没範囲を押し留めることができる。
だが、それでも完全には打ち消せない。
主人公とラスボス、お互いの強大な結界同士がギリギリのところでせめぎ合い、その隙間に「超高難易度のバトルフィールド」が強制的に発生するというわけだ。
……そんなゲーム特有の理不尽な仕様が、現実世界に顕現するとどうなるか。
今、俺の眼前にそびえ立っている光景がその答えだ。
オルカス陣営が展開した領域を強引に相殺し高さを制限することができる「聖域」が存在しないこの場所では、直径10キロメートル、高さ2キロメートルにも及ぶ常軌を逸した巨大な水槽が戦場を完全に飲み込んでいる。
ゲームならば、画面が暗転して問答無用で「負け判定」の文字が浮かび上がる絶望的な状況だ。
今はまだ、この状況下でも俺と同盟関係にある「樹木の魔人」たちは地中や樹冠に逃れて健在だが、この狂気じみた塩害水没環境では長くはもたない。
相手の土俵に完全に持ち込まれた籠城戦は、圧倒的に敵軍の有利に働く。
***
俺は上空に滞空したまま、この絶望的な戦況をどうやってひっくり返すか、フル回転で脳を働かせていた。そして、ある破天荒なアイデアを思いつく。
(……待てよ。俺のチート能力である『魔封印』の効果範囲を、全開の半径二メートルまで広げた状態で、あの透明な結界に近づいたら、一体どうなる?)
あの巨大水槽の理屈はこうだ。
オルカスが海から巨大な津波としてここまで引っ張ってきた大量の海水が、引くことなく不自然に溜まり続けているのは、周囲を覆う目に見えない魔法の結界が、頑強なダムのように海水をせき止めているからに他ならない。
オルカス自身が己の魔力で「一から生成した海水」であれば、空中に留めるなど自在に動かせるだろう。だが、あのプールの大部分を占めているのは、遠くの海から物理的に運んできた「ただの自然の海水」であるはずだ。
せき止めている魔法の壁さえ消滅すれば、内包されている自然の海水は重力と自然の摂理に従って、周囲へと一気に流れ出すはず。
そう仮説を立てた俺は、即座に行動に移した。
滞空していた上空から一気に降下し、一旦地上へと降り立つ。
そして、「魔封印」の効果範囲を限界である半径二メートルへと拡大させた。
俺はその状態で、巨大な水槽の壁となっている敵の領域――
透明な結界の表面へと、迷うことなく歩み寄った。
俺の持つ魔封印は、オートで強制的に魔法を分解し、霧散させてしまうという文字通りのチート能力だ。
相手がどれほど膨大な魔力を注ぎ込んだ強固な結界であろうと、システムの根源から崩すことは絶対に可能なはずだ。
***
そして、俺の展開した半径二メートルの魔封印が、透明な結界の壁面に接触した瞬間。
ガラスが割れるような甲高い音と共に、結界の一部が円形に消滅した。
――どばぁあああああああああああああああああ!!!
「っっ!?」
鼓膜を破らんばかりの凄まじい轟音。
結界に空いた直径約二メートルの丸い穴から、水深2キロメートル分の途方もない水圧を伴った真っ黒な海水が、まるで大砲から放たれた極太のレーザーのごとく勢いよく溢れ出してきた。
結果として、俺の目論見は半分外れ、半分当たった。
残念ながら、強固に連携された結界そのものをすべて一撃で破壊することはできなかった。(後から思い返すと、かえって良かったのだが……)
穴が開いたのは、俺の魔封印が触れた「半径二メートル」の範囲だけ。
現実のダムのように、小さな亀裂や穴から水圧で連鎖的に全体が崩壊するという物理法則は、魔法の結界には適用されなかったらしい。
しかし、結界の完全性を「崩す」ことには見事に成功した。
だが、その代償は大きかった。
開いた穴から超高圧で噴出した大量の濁流の直撃を受け、俺の体は悲鳴を上げる間もなく、凄まじい勢いで後方へと吹っ飛ばされたのだ。
まるで巨大な洗濯機の中に放り込まれたような凄惨な視界。
上下の感覚すら失い、大量の塩水を全身に浴びながら、俺は地面を削る激流に乗ってそのまま森の奥へと流されていく。
水の流出は止まらない。
結界から数百メートルほど流された。
周囲の地形のおかげでようやく水流の勢いが収まり、俺は咳き込みながらなんとか立ち上がることができた。
「けほっ……。最悪だ。全身打撲で、全身ずぶ濡れじゃないか」
髪から滴る海水を拭いながらぼやいていると、俺の肩の上から間一髪で離脱し、難を逃れていた小さな妖精――豊穣のデメテルの分体が、俺の耳元でキンキンと甲高い声で文句を言ってきた。
「ちょっとあんた! いきなり被害を広げてどうするつもりなのよ! あんたのせいで、ドス黒い海水が森の土にドバドバしみこんで来てて、超キモいじゃない!」
「ぐっ……いや、聞いてくれ。どのみち、オルカスを倒してあの巨大結界がすべて消滅すれば、この海水は一気に森に広がる運命なんだ。だったら、こうして少しずつ穴から出しておいた方が、最終的な土壌への被害は少なくて済むだろ?」
俺はもっともらしい理屈を並べて言い訳をした。
だが本音を言えば、俺が開けた二メートルの穴から出ている水の量など、全体の凄まじい水量から見れば微々たるものでしかない。水位が下がるのに何百日かかるか分かったものではない。
これでは、単に俺が超高圧の海水洗浄機を喰らってずぶ濡れになっただけではないか。
***
(くそ、少々考えが浅かったか……)
濡れた服の不快感に眉をひそめ、己の無計画な行動を激しく後悔していた――
その時だった。
ドシュッ!!
俺が開けた結界の穴。
そこから勢いよく吹き出す水流に逆らうようにして、一体の巨大な魔人が弾丸のように飛び出してきたのだ。
「おのれぇえええ! 我が陣営の結界に穴を穿ち、破るとは! まさか『光魔法』の使い手か!」
ズン、と重い音を立てて地上に降り立ったその姿。
全身を覆うヌメヌメとした赤紫色の皮膚、顔の下半分からうねるように生え揃った無数の太い触手、そして吸盤が放つ強烈な磯の匂い。
それは、オルカス陣営の幹部クラスに名を連ねる「蛸の魔人」だった。
魔人は、結界を部分的に消滅させた俺の魔封印を、リアム王子のような高位の光魔法の使い手による攻撃だと勘違いして激昂している。
その勘違いと、敵の異様な威圧感を前にして――
俺の口角は、自然とニヤリと吊り上がった。
結界全体を壊すことはできなかったが、こうして安全圏のプールの中に引き籠もっていた「敵の幹部クラス」を自分から外へと引っ張り出せたと思えば、これは大戦果と言っていい。
俺の無謀な突撃によるずぶ濡れにも、しっかりと意味はあったというわけだ。
「……計画通りだ」
濡れた前髪をかき上げ、俺は魔剣の柄に手を掛ける。
気を取り直し、目の前の獲物を確実に始末するため、低い重心で戦闘態勢に入った。




