第339話 オルカス陣営の攻勢
世界規模のモンスタースタンピードという未曾有の大厄災が発生してから、早くも五日の時間が経過していた。
激動の渦にあった人間界の情勢も、ここに来てようやく変化に乏しくなり、一定の落ち着きを見せ始めている。
完全に魔物の波に呑まれ、瓦礫と死骸の山と化した壊滅地域。堅牢な城壁と人々の死力によって、辛うじて防衛線を持ち堪え続けている重要拠点。あるいは、地理的な幸運や冒険者たちの活躍によって、比較的被害の少ない場所。
世界地図は斑模様のように悲惨な状況を示してはいるが、パニックのピークは過ぎ去った。
生き残った人類は悲しみに暮れる間もなく、すでに次のフェーズ――すなわち、世界全体で総量が増大してしまった魔物たちの地道な掃討戦と、破壊された生活基盤の再建を確実に行っていくという、長く苦しい戦いの段階へと入っていた。
そんな折である。
俺は、同盟を結んでいる魔界の陣営からの緊急の援軍要請を受け、すぐさま行動を起こした。
行き先は、広大な魔界に存在する「樹木の魔人」が支配する縄張りである。
胸ポケットに潜む『豊穣のデメテル』の種からの切羽詰まった声によれば、どうやら長らく膠着状態にあった敵対勢力、オルカス陣営がついに本格的な大攻勢を仕掛けてきたらしい。
俺は空間を切り裂く転移魔法を展開し、魔界の広大な森林地帯――
その遥か上空へと一瞬にして身を躍らせた。
***
転移した直後、視界が開けるよりも早く、強烈な異変が俺の五感を激しく叩き打った。
「なんだ、これは……!?」
思わず息を呑む。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォッ!!
腹の底から内臓を揺さぶるような、凄まじい地鳴りのような轟音が世界に響き渡っていた。空気を震わせるその音の正体は、眼下に広がる壮絶な光景が生み出しているものだった。
俺の視界の下、見渡す限りの緑を誇る広大な森に向かって、巨大な「黒い壁」がうなりを上げて迫ってきていたのだ。
いや、それは壁ではない。
大地を削り、根こそぎ木々をなぎ倒しながら、森そのものを無残に侵食して迫り来る、絶望的な規模の大津波だ。
大量の黒々とした濁流が、まるで巨大な獣が顎を開いて世界を喰らうかのように、豊かな森を次々と飲み込んでいく。
海など遥か遠くにあるはずのこの内陸の森に、濃密な潮の匂いと、生木がへし折れる悲鳴のような音が立ち込めている。
この魔界の森には、人間界のそれとは比べ物にならないほど巨大な樹木が多数自生しており、特にその中心部には、天を貫かんばかりの威容を誇る、ひときわ巨大な「神木」がそびえ立っている。
さすがの津波も、その神木の頂までを完全に飲み込むほどの高さはない。
しかし、周囲に生い茂る通常の巨大樹ならば、いともたやすく水の中に沈め切ってしまうほどの、常軌を逸した水量である。
だが、最も異常なのはその先だった。
通常の自然現象としての津波であれば、どれほど巨大であっても、内陸深くへ進んで勢いを失えば、やがて水は四方へと散り、引いていくはずだ。
しかし、眼下で猛威を振るうこの黒い水流は、そうはいかなかった。
「……水が、せき止められている……?」
信じがたいことに、森の周囲に、まるで目に見えない「透明な円柱の壁」が存在しているかのように、押し寄せた水が不自然にせき止められ、逃げ場を失ってドス黒く溜まっていったのだ。
後から後から、絶え間なく津波は押し寄せてくる。その途方もない水量は引くことなく、透明な壁の中に延々と蓄えられ、水位を不気味に上昇させていく。
結果として、天を衝く神木を中心にして、途方もない規模の「円柱の巨大海水プール」が、森を丸ごと沈める形で出来上がってしまったのだ。
***
あまりにも現実離れした光景に、俺は眉間によった皺を深くした。
「……明らかに、魔法で構築しているよな。それにしても規格外だが」
独り言のように呟いた俺の言葉に、胸ポケットから顔を出した小さな花の妖精――豊穣のデメテルの分体が、忌々しげに答えた。
「ええ、その通りよ。あいつらは遠く離れた海で巨大な津波を起こして、強引にここまで海水を引っ張ってきたみたいだけど……それを押しとどめて水位を上げるために、魔法で結界を張ってるわね」
「お前たち「樹木の魔人」陣営は、大丈夫なのか? これだけの水に沈められては……」
俺の懸念に対し、デメテルは可愛らしい顔をしかめて見せた。
「今のところはまだ平気よ。でも……本当にキモいわ、この泥水。それに、このふざけたプールを長期間維持されると、私達にとってもかなり厳しい状況になるわね」
デメテルの言う通り、この森を自らの縄張りとする「樹木の魔人」たちは、物理的な攻撃に対する生存能力が極めて高い。
木の根が張り巡らされた深い地中に本体を宿すこともできれば、水没を免れた高い神木の枝や葉に意識を移して出現することもできる。
あの巨大な海水プールの上(神木の梢)にも、下(地中深く)にも、当面の安全地帯は確保できるだろう。
ただ溺れ死ぬような柔な連中ではない。
だが、問題はそこではない。
その安全は決して長持ちしないのだ。
これだけの大量の「海水」が、長時間にわたって森の木々や土壌に浸透し続ければどうなるか――。
強烈な塩害により、森の生態系は破壊され、根は腐り、いずれ巨大な神木すらも枯れ果ててしまうだろう。
森が長く持つはずがない。
自身のテリトリーに引き籠っての防衛・籠城戦を最も得意とする「樹木の魔人」に対して、オルカス陣営はあえて真っ向から攻城戦を挑むのではなく、森の環境そのものを破壊する「強引な兵糧攻め」を敢行したわけだ。
敵陣営の構築した「海水領域」。
直径十キロメートル、高さは優に二キロメートルはあるであろう、この狂ったスケールの巨大な海水プール。
これを構築するのは並大抵の術師では不可能だ。
だが、敵であるオルカス陣営の中核メンバーは、「シャチの魔人」である『絶海のオルカス』を筆頭にして、海を支配する強力な魔物たちで構成されている。
海水を操ることに長けたそいつらが、複数人で協力すれば――
この巨大な結界を張ることも可能だったようだ。
***
俺は空中に留まったまま、眼下で渦巻く黒い海を睨みつけ、ぞっとするような冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。
(樹木の魔人たちと、あらかじめ同盟を組んでおいて本当に正解だった……)
もし同盟を結ばず、この事態を放置していたらどうなっていたか。
おそらく「樹木の魔人」はオルカスに敗北する。
そうなれば――敵はこの狂気じみた水攻めの戦術を、魔界における拠点である『魔王城』に対しても使ってくるだろう。
こちらの陣営の中で、純粋な翼を持ち自由に空を飛べるルシフィールならば、この圧倒的な水没の難を逃れることができるだろう。
しかし、それ以外の者たちはどうだ。
いくら戦闘能力が高くても、逃げ場のない二キロメートルもの水底に沈められれば、手も足も出ずに無惨に溺れ死ぬしかない。
こちらの切り札の一つでもある、光魔法の最上位に位置する絶対防御の結界『聖域』――。
闇属性の魔法に対し有利属性であっても、このように本物の自然の海水そのものを物理的に大量利用されてしまうと、打ち消して防ぎ切れるかは未知数だった。
少しでも対応を間違えれば、俺の築き上げた平穏な居場所は、一瞬にして海の藻屑となっていたのだ。
「……ここで、完全に息の根を止める」
俺は誰にともなく低く呟き、瞳に冷酷な殺意の炎を灯した。
オルカスが、その圧倒的な暴力と水攻めの戦術をもって、魔王城を攻め落としに来る前に――
なんとしても、この森の戦場で奴を始末するしかない。




