第338話 次の戦場へ
アドラステア帝国の帝都を絶望の淵から救い出した俺は、そのまま自身の拠点であるアースガルド王国の屋敷へと空間転移で帰還した。
泥のようにベッドに倒れ込んでから、どれだけの時間が経っただろうか。
ふかふかの羽毛布団に包まれ、心地よい微睡みの中から意識がゆっくりと浮上していく。ここのところ、長距離の移動と息を呑むような戦闘の連続で、肝心の「休養」というものを一切取れていなかったのだ。
背伸びをすると、全身の筋肉が心地よく解れていくのがわかる。
一息ついたところで、俺はここでしっかりと心身を休めておくことにした。
目覚めのハーブティーを飲みながら、俺は現在の世界情勢を俯瞰する。
世界各地に点在する巨大な『湧き点』から突如として大量発生した魔物たち。
その厄災により、人間社会はかつてない大混乱に陥っていた。
だが、その急激なパニック状態も、ここに来てだいたい落ち着きを見せ始めている。
魔物の暴力的な波に呑まれ、為す術もなく蹂躙されて完全に壊滅してしまった悲惨な場所もあれば、堅牢な城壁を頼りに決死の抵抗を続けている箇所もある。
俺が世界各地に放っている分体、「キラー・マシーン」シリーズたちも、無機質かつ冷徹に、着々と敵勢力を削り落としていた。あいつらが機械的に魔物を間引いてくれたおかげで、間一髪で助かった地域も少なくないはずだ。
現在、抵抗を続けている城塞都市や砦といった防衛拠点では、押し寄せる魔物の迎撃が、皮肉なことにすでに「日常化」しつつある。
良くも悪くも戦線は膠着し、大きな変化は起きていない。
そういった意味では、事態は一定の落ち着きを見せていると言えるだろう。
しかし、「世界全体に存在する魔物の総量が爆発的に増えた」という根本的な大問題は、未だに何一つ解決していなかった。
そもそも、溢れ出した魔物の群れには指揮官となる存在がおらず、まったく統制されていないのだ。
本能のままに人を食べるため、獲物の匂いを求めて人里を目指す傾向はあるものの、基本的には当てもなく世界を気ままに彷徨っているだけである。
どこに、どの程度の規模の群れが潜んでいるのか、正確な把握は不可能だ。現状では、発見次第、各領主が討伐隊を編成して地道に間引いていくしかないだろう。
防衛力の乏しい小さな村などは言うに及ばず、城壁を持たない大きな町や、領地丸ごとが地図から消え去った場所もある。
(これだけあちこちが破壊されれば、各国の流通網もズタズタだろうな……)
群れを成す魔物を地道に間引き、帰る場所を失った避難民を受け入れて生活を再建させ、荒廃した村や町をゼロから復興させる。
人間社会がかつての水準にまで回復するには、何年、いや何十年かかるかわからない。気が遠くなるような話だ。
***
幸いなことに、俺が暮らしているこのアースガルド王国の王都は、初期の混乱こそあったものの、すでに平穏を取り戻している。
俺自身、自分の生活水準と安全は確保している。
とはいえ、この世界規模の混乱状況下において、強大な力を持つ者として何かすべきことがあるのではないか――。
そんなことを考えながら、王都に住む知り合いの近況や、自分が所有する物件の様子を見て回ることにした。
窓から差し込む陽光は暖かく、外は気持ちのいい春の青空が広がっていた。
俺は御者に命じて、王都の石畳の通りをゆっくりと馬車で走らせる。
車窓から見える商店街は、ぽつぽつと営業を再開し始めている店もあるが、道行く人々の顔には疲労と不安が色濃く残り、かつてのような活気はまだ戻っていない。
それよりも目に付くのは、魔物の残党狩りと、治安悪化を防ぐための警戒にあたる兵士たちの姿だ。ガチャガチャと鎧を鳴らしながら巡回する彼らの姿が、やけに重苦しく感じられた。
馬車が最初に向かったのは、俺が所有している大劇場だ。
建物の外観をざっと確認したが、幸いにも魔物の襲撃による被害は一切なかった。
とはいえ、この緊迫した情勢下で優雅に観劇を楽しむ客などいるはずもなく、当面の間は休業状態を続けるしかない。
支配人に伝言を残し、劇場を支える俳優や裏方の従業員たちは誰一人として解雇せず、給料を保証してそのままキープしておくよう指示を出した。
金ならいくらでもある。
貴族相手の高級レストランだ。
食材の流通が安定し、王都の治安が回復すれば、すぐにでも営業を再開できるだろう。
その後、懇意にしている商会もいくつか見て回り、軽く挨拶を交わしておいた。
彼らも流通の麻痺に頭を抱えていたが、俺が顔を出したことで少しは安心したようだった。
***
ひと通りの視察を終えて自分の屋敷に帰還すると、出迎えてくれた婚約者のセシリアとリゼルから、王国軍の最新の動きについて報告を受けた。
香り高い紅茶を淹れてもらいながら、ソファでくつろいで話を聞く。
「リアム王子殿下は、すでに少数の近衛騎士団を引き連れて、王国の北西部……クロウリー公爵領へと援軍に向かわれたそうですわ」
セシリアが落ち着いた声でそう告げる。
あの真面目で責任感の強い王子のことだ。
今頃は自ら剣を振るい、最前線で魔物の掃討戦に尽力しているはずだ。
王国各地の領主たちから、王宮へ悲鳴のような救援要請が次々と舞い込んでいるという。王位継承者であるリアム王子も、文字通り休む暇などない激務をこなしているのだろう。
(さて、俺はどう動くかな……)
温かい紅茶を一口すすりながら、俺は次の手を思案する。
スローライフを満喫するためには、この世界が平和であることが大前提だ。
かといって、俺がすべての戦場にしゃしゃり出て解決してしまうのも、少々やりすぎな気がする。
***
そんな風にのんびりと考えていた、その時だった。
俺がシャツの胸ポケットに大事に入れてあった『豊穣のデメテル』の種が、突如として熱を持ち始めた。
ズンッ、と微かな魔力の波紋が広がり、種が一瞬にして急成長を遂げる。
淡い緑色の光を放ちながら、手のひらサイズの花の妖精のような可憐な姿へと変貌した。
魔界の情勢に、劇的な変化があった証拠だ。
妖精の姿をとったデメテルは、その可愛らしい見た目には似つかわしくない、焦りと怒りが入り混じった切羽詰まった声で叫んだ。
「大変よ! オルカスの糞野郎が、ついに攻めてきたわ!」
魔界では長らく、互いに様子見の持久戦が繰り広げられていた。
しかし、敵軍のボスであるオルカスが、しびれを切らして大規模な攻勢を仕掛けてきたらしい。
平穏なティータイムの空気は、一瞬にして吹き飛んだ。
「……わかった。すぐに向かう」
俺は手にしていたティーカップをテーブルに置き、表情を引き締めた。
立ち上がると普段着から、漆黒の戦闘服へと着替える。
愛用の魔剣を腰に帯び、万全の装備を整えた。
人間界の混乱も厄介だが、魔界の覇権をオルカスに握られるわけにはいかない。
「少し出かけてくる。留守を頼む」
彼女たちに短く告げると、俺は体内で複雑な魔術式を展開した。
視界が反転し、空間が歪む。
俺は次なる激戦の地――血生臭い戦場となっているであろう、魔界の深い森林地帯へと一瞬にして転移したのだった。




