第341話 VS蛸の魔人
魔界の奥深く、俺は未曾有の大規模戦闘の真っ只中にいた。
オルカス陣営が展開した、森を丸ごと飲み込むほどの巨大『海水領域』――
その透明な結界の壁にチート能力『魔封印』で風穴を開け、安全圏に引きこもっていた敵幹部の一人を外へと誘い出すことには成功した。
だが、その代償は小さくない。
「ぐっ……、最悪だな……」
結界の穴から超高圧で噴き出した海水の鉄砲水に真正面から押し流され、俺の体は森の木々をへし折りながら泥濘を転がり回った。
全身の骨がきしむような鈍い痛みが走り、服の中まで入り込んだドス黒い海水が、肌にべったりとまとわりついてひどく気持ちが悪い。
鼻を突く強烈な磯の匂いと泥の臭いが混ざり合い、思わず顔をしかめる。
だが、この損害に見合っただけの十分すぎる成果は得られた。
俺の視線の先――
なぎ倒された木々の中心に、そいつは立っていた。
「……貴様、ただの人間か? さては、魔王城と人間界を行き来して我らの邪魔をしているという、忌々しい奴だな」
ズズズ……と、周囲の泥を這いずるような不快な音。
全長三メートルは優に超えるであろう巨体。
「蛸の魔人」――
八肢のクラーン・ラオだ。
赤紫色の悍ましい皮膚に覆われた体躯から、自在にうねる八本の太い触手が伸びている。それぞれの触手には巨大な吸盤がびっしりと並び、獲物を捕食せんとする凶悪な意思を放っていた。
***
ドォン!!
大地が爆発したかのような重低音が響いた。
俺が腰の専用武器「クロノス・ヴァイス」を抜こうと柄に手を掛けた、まさにその瞬間――。
クラーン・ラオの足元の地面が突如として隆起し、無数の「棘付きの蔦」が狂ったような速度で急成長を遂げたのだ。
「な、なんだこれはっ!?」
鋼鉄レベルの強度を誇る極太の蔦が、大蛇のように蛸の魔人の巨体に巻き付き、八本の触手を強引に拘束していく。
「樹木の魔人」――
茨姫ロゼ・ソーンの操る非情な束縛魔法だ。
鋭い棘が赤紫の皮膚に深々と食い込み、ドロリとした体液が滲み出す。
そして、動きを封じられたクラーン・ラオの頭上から、淡く発光する微細な粉末が雪のように降り注いだ。
俺の肩に乗る小さな妖精、豊穣のデメテルが放つ「滅びの胞子」だ。
それは単なる毒ではない。
吸い込んだ者の細胞の時間を強制的に進め、「急速な老化」を促すという、悪夢のような代物である。
「チィッ!!」
己に降りかかる粉末の異常性に本能的な死の危険を察知したのか、蛸の魔人はギュッと目を閉じ、肺の中の空気を逃さないように息を大きく吸い込んで呼吸を止めた。
あの巨大な水槽の中、水中に籠られてしまっていては、デメテルの胞子攻撃は届かなかっただろう。
だが、こうして自ら外の地面へと躍り出てしまえば、「樹木の魔人」たちの圧倒的なホームグラウンドだ。
地脈から無尽蔵に供給される蔦の攻撃は決して止まず、空気に舞う胞子は確実に敵の命を削る。
(ここに留まれば、確実に干からびて死ぬ――!)
そう判断したクラーン・ラオは、拘束されていない下部の触手――八本の足を限界までかがめ、巨大な筋肉の塊にぐぐぐっ! と爆発的な力を溜め込んだ。
そして、ぬかるんだ地面を全力で蹴り上げる。
どぼあっ!!
すさまじい泥しぶきを上げ、巨大な蛸の魔人は自らの体を大砲の弾のように上空へと射出させた。
ロゼの鋼鉄の蔦を強引に引きちぎって振りほどいたため、赤紫の体中から肉片と体液が撒き散らされたが、奴はお構いなしだ。
一刻も早く、己のテリトリーである「巨大海水領域(水槽)」の中へ逃げ帰るため、宙を一直線に飛んでいく。
***
だが、甘い。
必死に逃走を図るクラーン・ラオの侵攻方向。
その空中の軌道上には、すでに俺が待ち構えていた。
奴が地上から跳躍して離脱する、ほんの数秒前。
俺は即座に「加速魔法」を起動し、超高速で地面を蹴り飛ばしていた。
残像すら置き去りにする速度で巨大樹の幹を駆け上がり、敵の身体と巨大水槽の間に狙いを定めて、虚空へとジャンプ。
ドンピシャのタイミングで、空中での待ち伏せに成功したのだ。
「なにっ!?」
空中で俺と目が合い、蛸の魔人が驚愕に見開かれる。
奴が迎撃の触手を伸ばしてくるよりも早く、俺は冷酷に魔法のトリガーを引いた。
「――時よ、止まれ」
発動させたのは「時止めの魔法」。
世界から一切の音が消え失せ、風のせせらぎも、舞い散る泥の飛沫も、敵のうねる触手も、すべてが超スローペースの泥沼の中に閉じ込められたように停滞する。
その絶対的な静寂の中で、俺は右足に意識を集中させ、変身魔法タイプ・フェノメノンを起動した。
バチッ……バチバチバチィッ!!
俺の右足が、質量を持った「黒い雷」へと変質し、闇色の稲妻を纏って激しくバチバチと弾ける。
準備を整えると同時に、時止めを解除。
疑似的な雷霆へと作り替えられたその足で、空中で無防備に晒されたクラーン・ラオの不気味なふくれっ面に向けて、容赦のない回し蹴りを叩き込んだ。
どごぉおおおおおおおんっ!!!
黒雷の炸裂。
「ぶ、ぶふぇぇええええええええっ!?」
鼓膜を破るほどの爆音。
顔面を真横から蹴り飛ばされた蛸の魔人は、全身に黒い雷の呪いのような痺れを走らせながら、悲鳴と共に真下へと錐揉み回転で吹き飛んでいった。
そのまま森の木々を何本も薙ぎ倒し、ズドォン! と凄まじい土煙を上げて地面に深くめり込む。
***
激しい衝撃で肺の中の空気を吐き出してしまったクラーン・ラオは、激痛の中で思わず新たな酸素を求めて呼吸を再開してしまう。
だが、そこはすでにデメテルが致死量の「老化の胞子」をバラ撒き終えた死の空間だ。
「がっ……はっ、あ……!?」
クラーン・ラオは再び己の海水領域へ逃げ込もうと、震える八肢に力を込める。
しかし、無駄だ。
俺の黒雷の強烈な痺れが神経を焼き切り、思うように体が動かない。さらに、肺の奥底まで吸い込んでしまった胞子が、急速に奴の生命力を奪っていく。
「ぐぅ、……ぐおぉおおお、体が、水分がぁっ……!」
みずみずしかった赤紫の皮膚が、みるみるうちにひび割れ、老婆の肌のようにシワシワに干からびていく。
もはや上体を起こす力すら失った蛸の魔人を、再び茨姫ロゼ・ソーンの容赦ない無数の蔦が完全にからめとり、大地の養分として吸い尽くすべく地中深くへと引きずり込んでいった。
完璧なハメ技の完成だ。
この連携に一度でも嵌まってしまえば、そこから抜け出すのは不可能に近い。個人の純粋な戦闘力がいくら高くても、どうにもならない理不尽な死がそこにあった。
「あーあ。ちょっとばかし自分たちの領域が優勢だからって、私たちのこと、なめ過ぎじゃない?」
俺の隣にふわりと舞い降りた魔人が、冷ややかな声で煽り立てる。
燃えるような真っ赤な髪に、鋭い茨で編まれたドレスを纏う美女――茨姫ロゼ・ソーンだ。
そして俺の肩の上では、小さなデメテルが腹を抱えてケタケタと笑っていた。
「ほんとほんと! 自分から安全な水の外に出てきて、まんまとやられてやんの! やーい、ザーコ♡ ザーコ♡」
……まるで絵に描いたような、メスガキの煽りである。
あの巨体の幹部を相手に、一切の容赦も同情もないその態度は、ある意味で清々しいほどだ。
俺はほんの少しばかり、哀れな最期を遂げた蛸の魔人に同情の念と、ある種の羨ましさを抱きながら、視線を前へと戻した。
見据えるのは、未だ天高くそびえ立つ敵の本丸――
圧倒的な質量を誇る巨大海水領域だ。
「さて……幹部の一角は崩した。次に行くぞ」
気を引き締め直し、俺は愛用のクロノス・ヴァイスの柄を強く握り直した。




