第335話 第三の選択肢
帝国の西の果てにある辺境伯領から空間転移による長距離移動を繰り返し、アドラステアの中心部――堅牢なる帝都の上空にたどり着いた頃には、時刻はすっかり深夜に差し掛かっていた。
冷たい夜風にコートの裾をはためかせながら、俺は眼下に広がる光景を見下ろし、思わず目を細めた。
アドラステア帝国が誇る、巨大で頑丈な石造りの城壁。
その内側に広がる美しい帝都は今、文字通り「黒い津波」のような無数の魔物たちによって、隙間なく完全に包囲されていた。
星明かりすら届かぬ暗闇の中、城壁の各所で焚かれた篝火が赤々と燃え上がり、時折放たれる魔法攻撃の閃光が、蠢く魔物たちの醜悪なシルエットをチラチラと夜闇に浮かび上がらせている。
遠く上空にいる俺の鼻腔にまで、血の不快な臭いと、肉の焦げる鼻を突く異臭、そして地響きのような魔物の咆哮が届いていた。
「……随分と、派手にやられているな」
城壁の上では、兵士たちが血みどろの死闘を繰り広げていた。
上空から強襲を仕掛けてくる飛行タイプの魔物に対しては、雨あられと弓矢を射掛け、対空の攻撃魔法で辛くも迎撃している。
同時に、城壁の表面に爪を立ててよじ登ろうとする無数の敵に対しては、煮え滾る油や巨大な落石攻撃を見舞い、力任せに城壁下へと振り落としていた。
兵士たちの必死の抵抗により、何とかまだ防衛線は持ち堪えている。
だが、誰の目にも限界は明らかだった。
落城は、もはや時間の問題にしか見えなかった。
何しろ、押し寄せる魔物の数が多すぎるのだ。
波のように絶え間なく続く攻撃に対し、迎撃する兵士たちの体力も、持ち堪えるための精神的な持久力も、それほど長くは続かないだろう。
***
なぜ、これほどまでの大軍勢が帝都を囲んでいるのか。
帝国の東側に位置するアイゼンバルト辺境伯領は、すでに大規模なスタンピードによって陥落し、魔物に無残に蹂躙されている。
一方で、その隣接する領地であるヴァランティーヌ侯爵を始めとした実力ある領主たちは、なんとか迎撃体制を構築し、今もギリギリで持ち堪えているはずだ。
しかし、広大な領土を誇る帝国近辺において、魔物が湧き出す「湧き点」は決して一つではない。
この状況を見るに、帝都の周囲には大きめの湧き点が複数存在していたのだろう。
そこから際限なく湧き出てきた魔物たちは、周辺にある人間の集落に次々と襲い掛かり、村や町を壊滅させながら本能のままに帝都へと向かった。
そして、この巨大な防壁の前でそれぞれが合流して合わさり、結果として数万にも及ぶ絶望的な大軍勢を自然と形成してしまったようだ。
もし、この帝都を攻め落とされでもしたら――攻撃目標を失ったこの数万の魔物の群れは、肥沃な帝国中へと無秩序に散らばってしまうだろう。
(なんとしてもここで、この群れを食い止めないとな)
俺の望みは、この世界で悠々自適なスローライフを送ることだ。
そのために領地を整備し、敵対する王家とも適度な関係を築いてきたのだ。
俺の平穏な余生を、こんな理不尽な厄災によって壊されてたまるものか。
さっさと眼下の魔物どもを蹴散らすことに決めたが、その前にやるべきことがある。
エリザベートへの挨拶だ。
彼女は現在、この帝都にいる。
これほどまでの絶望的な状況だ、さぞかし不安がっているに違いない。
それに、こんな絶体絶命の危機に颯爽と駆けつければ、俺がどれほど頼りになる存在かということを、きっちりとアピールできる絶好の機会でもある。
これまでは面倒を避けるために自分の力を隠して彼女たちと接してきたが、これほどの緊急事態となれば、能力を出し惜しみしている状況でもない。
俺は思考を切り替えると、自身の魔力を操作し、光の屈折や気配すらも完全に遮断する『隠密魔法』を展開して姿を隠蔽した。
そして、空中に留まるための浮遊魔法をふつりと切り、重力に身を任せて、戦火に包まれる帝都の城の中庭へと真っ逆さまに落下していった。
***
ヒュガァァッという風切り音を立てて落下し、地面に激突する直前で、再び浮遊魔法を瞬時に展開する。
音もなくふわりと着地を決め、俺は誰にも気づかれることなく、帝都の中枢である城の内部に入り込んだ。
初めて足を踏み入れた城だが、迷うことはない。
城のつくりなど、どこも似たようなもの。適当に探索していれば目的の場所は見つけられるだろう。
俺は目を閉じ、『空間把握能力』を広範囲に展開して城の全体構造を脳内に描き出した。
張り詰めた空気が漂う城内をマッピングしていくと、一箇所だけ、異常なほど人が多く集っている大広間を見つけた。
その密集した人混みの中に、俺のよく知る気配――エリザベート姫と、彼女の生真面目な護衛騎士であるフレイヤ、そしてエルミーネたちの魔力波長をはっきりと感じ取る。
こんな夜更けに、大部屋に帝国の要人たちが大人数で集まっているところを見ると、今後の対応を決める最終的な作戦会議でもしているのだろう。
俺は隠密状態を維持したまま、音もなく廊下を滑るように進み、その大広間へと向かった。
重厚な扉をすり抜けるようにわずかに開けて中に入ったが、高度な隠蔽を施された俺の存在に気づく者は誰一人としていない。
室内には、胃が痛くなるほどの重苦しい沈黙と、濃密な絶望感が充満していた。
会議の様子を静かに聞いてみると、議題はすでに「いかに戦うか」ではなく、「いかに生き延びるか」へと移行していた。
防衛線はもう長くは持たない。
ならば、何とか国の有力者や皇族だけでも逃げ延びられるように、決死隊を組んで一点突破の突破口を開こう――という悲痛な話になっていたのだ。
それゆえに、戦闘に参加しないお姫様も、この場に呼ばれているわけだ。
それはつまり、「帝都と、そこに住まう数百万の民を放棄する」という、帝国史上最大の重大な決断を意味していた。
上座の中央には、年老いた皇帝が深く玉座に腰を沈め、頭を抱えるようにして苦悩している。
歴史ある都を捨てて「逃げる」というのも皇帝にとって身を切るような苦渋の決断だが、そもそもその「逃げ道の確保」自体が不可能なほどの難題であった。
何しろ、数万の魔物は広大な帝都の周囲を何重にも分厚く覆い尽くしているのだ。
数千規模の決死隊を編成して突撃させたところで、退路の確保は困難を極めるだろう。無駄死にに終わる可能性が高い。
それよりは、分厚い城壁を信じてこの城に籠城し続け、全国各地の諸侯に援軍を要請してはどうか、という徹底抗戦の意見も有力視されていた。
しかし、通信魔法によって各地の情報を集めている首脳部は、その希望がいかに脆いかを痛感していた。魔物の大量発生は世界規模で起きており、各領主も自分の領地の防衛で手一杯だ。
援軍の期待など、限りなく薄いと分かっているのだ。
決死隊を組んで外へ進めば全滅の地獄。
このまま城に引き籠もっても、いずれ食い破られる地獄。
まさに、進めば地獄、引いても地獄という絶体絶命の状況であった。
***
「……もはや、これまでか。余の代で、帝国を滅ぼすことになろうとは……」
絞り出すような皇帝の呟きが、広間に重く響き渡る。
これからの方針――死に向かう決断を下そうと口を開きかけた皇帝の目の前に、俺は音もなく歩み出た。
そして、皇帝が決定的な言葉を紡ぐ直前。
俺はニヤリと笑みを浮かべ、自身を覆っていた隠密魔法をパツンと解き放った。
「その決断、少々お待ちいただこうか」
静まり返っていた広間に、俺の余裕に満ちた声が朗々と響き渡った。
「進むも地獄、引くも地獄とお悩みのようだが……俺が『もう一つの選択肢』を用意して差し上げましょう。いやなに、簡単なこと――この帝都を囲んでいる数万の魔物の群れを、すべて『殲滅』するのです」
唐突に何もない空間から湧き出るように出現した、漆黒のコートを纏った見知らぬ男。
そして、あまりにも荒唐無稽で傲慢なその提案。
数秒の空白の後、会議室に居並ぶ歴戦の将軍や文官たち、そして目を見開いたエリザベートたちの間に、爆発的な驚愕と動揺の波が広がっていった。




