第334話 中央の情勢
(ゼノス視点)
ザハラ王国の聖都アル・ジャバル。
悪徳宰相カリムが醜く泣き喚く絶望の空間に「キラー・マシーン一号機」という強力な援軍(置き土産)を残し、俺は早々にその場を後にした。
一号機の圧倒的な殲滅力をもってすれば、あの程度の魔物の群れなど数日も経たずに屑の山と化すだろう。
聖都の防衛はあれで事足りる。
次なる視察地として俺が転移の座標に選んだのは、アドラステア帝国の最西端に位置する防衛拠点――バルバロッサの居城がそびえ立つ辺境の町であった。
空間の歪みを抜け、目的の地に降り立った瞬間、頬を撫でる風の質が劇的に変わったのを感じた。
ザハラ王国の焦けるような砂の熱気とは打って変わり、帝国の西の果てを吹き抜ける風は、肌を刺すように冷涼で、どこか血と鉄の匂いが微かに混じっているような錯覚を覚えさせる。
空には厚い雲が立ち込め、時刻はすでに深夜に差し掛かろうとしていた。
城塞都市の通りには松明の頼りない灯りが揺れているが、行き交う領民の姿はなく、代わりに完全武装した兵士たちが張り詰めた顔つきで巡回を行っている。
俺はこの地域の正確な情勢を掴むため、正面から辺境伯に面会を申し出た。
普段であれば、歴史ある帝国貴族というのはやたらともったい付け、アポなしの訪問者など何日も待たせるのが常だ。
だが、今回は違った。
面会の申し入れからわずかな時間をおいただけで、俺は城の中枢へと通される運びとなったのだ。
世界規模で発生しているモンスタースタンピードという未曾有の緊急事態。
悠長な貴族の慣例など守っている余裕がないほど、事態は逼迫しているのだろう。
案内されたのは、きらびやかな装飾など一切排された、ただただ実用性と威圧感だけを追求したような武骨な謁見の間だった。
冷たい石造りの床を歩き、俺は領主であるカエサル・バルバロッサと正面から向き合った。
年齢は五十代半ば。
戦場での過酷な日差しを浴び続けた肌は黒く日焼けし、顎には彼を象徴する豪胆な赤みがかった髭をたっぷりと蓄えている。
歴戦の猛者特有の鋭い眼光は、今や濃い疲労の色に覆われていた。
***
カエサルは、重厚な領主の席にどっかりと腰を下ろすなり、挨拶もそこそこに低く掠れた声で話し出した。
「ゼノス殿。こんな西の果てまで直接出向いてもらったところ誠に心苦しいのだが……すまない、現在我が領から援軍は出せない状況なのだ」
……援軍?
不意を突かれた俺の脳裏に、一瞬だけ疑問符が浮かんだ。
まったく話が見えない。
俺はただ、周辺の魔物の発生状況を聞きに来ただけなのだが。
しかし、そんな内心の戸惑いをおくびにも出さず、完璧なポーカーフェイスを維持したまま、ゆっくりと頷いてみせた。
相手が何か勘違いをしているのなら、あえて訂正せずに話を合わせることで、思わぬ情報を引き出せるのが交渉の定石だ。
「……そうですか。やはり、こちらの状況も厳しかったですか」
俺が神妙な顔つきで話を合わせると、カエサル辺境伯はわずかに顔をしかめ、ひどく渋い表情を作った。
「いや、幸いなことに、この辺りの地域には大規模な魔物の湧き点は確認されていない。だから、兵を出せぬことはないのだ。しかし、西方に陣取るグリムロックの連中が、この混乱状況にあっても兵を退く気配を一向に見せない。あ奴らが国境線を脅かしている以上、防衛の要であるここから、迂闊に予備兵力を割くわけにはいかんのだ」
カエサルはギリッと奥歯を噛み締め、苦渋の表情で俺を睨み据えた。
「……それにしても、帝都の近衛たる貴公が、このような辺境の地にまで足を運び、直接援軍を求めてくるとは――帝都の状況は、それほどまでに悪いのか? 仮に私が国境防衛の危険を冒し、無理に予備兵力を振り向けるにしても、すぐに出せるのはせいぜい八百……いや、かき集めても一千程度が限界だぞ?」
その言葉を聞きながら、俺は自身の頭の中で急速に状況のパズルを組み上げていった。
――なるほど。
バルバロッサ辺境伯は、俺の現在の表向きの肩書きである「アドラステア帝国・エリザベート姫の専属護衛騎士」という身分を重く見ている。
そして彼自身は、通信魔法の連絡網を通じて「帝都の状況が極めて悪化している」という事実をすでに把握している。
その二つの前提があるからこそ、突如として辺境に現れた俺を、『帝都の危機を救うため、各領主を回って緊急の援軍要請に走る使者』だと完全に勘違いしたのだ。
***
(アドラステア帝国の首都の状況は、それほどまでに悪いのか……)
俺の心臓が、かすかに嫌な音を立てた。
帝都には、俺と関係の深い帝国の姫エリザベートを始めとして、彼女を命懸けで守る生真面目な護衛騎士フレイヤ・バートランドがいる。
そして、目の前で苦悩するカエサルの愛娘であるエルミーネ・バルバロッサも、エリザベートの近衛に所属し、今まさにその渦中にいるはずなのだ。
あの三人が無力だとは思わないが、状況が辺境伯の耳に入るほど逼迫しているとなれば、さすがに捨て置くわけにはいかない。
助けに行かなければならないだろう。
俺はこの場を早々に辞して、急ぎ帝国の首都に駆け付ける決意を固めた。
「カエサル卿、こちらの状況は十分に理解しました。確かに、西方の脅威が去っていない以上、この辺境の守りを手薄にすることは帝国の防衛網そのものを危うくします。援軍の件はどうかお気になさらず。帝都の方は……こちらで何とかします」
俺が静かにそう告げると、辺境伯は己の無力さを恥じるように、酷くばつの悪そうな顔になり、大きな拳を膝の上で強く握りしめた。
「すまない……。だが、正直に言ってくれ。通信魔法による断片的な報告だけでは、帝都の正確な被害状況までは伝わらんのだ。聞くところによれば、現在帝都は『数万』もの魔物の大群に完全に包囲されているというが――まだ、持ち堪えているのか?」
カエサルの声は、愛娘の安否を案じる父親としての震えと、帝国の重鎮としての絶望が入り混じっていた。
「もし帝都が落ち、皇族が絶えれば……帝国は一気に崩壊してしまうぞ」
数万、だと?
これにはさすがの俺も驚きを隠せなかった。
数万の魔物が相手となれば、カエサルが無理をして千の兵を送ってくれたところで、文字通り焼け石に水だ。
無駄死にを増やすだけである。
だが、帝都が壊滅すれば、この強大な軍事国家は終わる。
かといって、この最西端の守りをないがしろにすれば、隣国の脅威に蹂躙される。
意味のない少数の援軍を出して領地を危険に晒すくらいなら、少しでも手元に兵力を温存し、来るべき防衛戦に備えたい。
それが今の絶望的な状況だ。
豪胆で知られるこの男が、愛娘の危機を知りながらも、苦渋の決断を迫られて一人で逡巡しているわけだ。
***
「援軍を得られれば、戦術的に心強いのは確かですが――」
俺はそこまで言うと、ゆっくりと席を立ち上がった。
そして、床を向いて歯噛みするカエサル辺境伯を見下ろし、傲慢なまでの自信を込めて言い放った。
「なに。心配には及びません。この『私』がいれば、数万程度の魔物など、どうとでもなりますよ」
それは強がりでもハッタリでもない。
これまでに培った圧倒的な力量に基づいた、純然たる事実の宣言だった。
俺から放たれた隠しきれない絶対的な強者の覇気に、カエサルは弾かれたように顔を上げた。
その鋭い眼光が見開かれ、俺の底知れぬ余裕に息を呑むのがわかった。
「……う、うむ。そうか……。貴公のその言葉を信じよう。帝都と娘を……頼む。健闘を祈る」
カエサルは深く頭を下げた。
バルバロッサ辺境伯の重い見送りを受け、俺は城塞を後にして帝都へと旅立った。
防壁に囲まれた町を抜けた頃には、雲の切れ間から冷たい月明かりが差し込み、時刻は完全に深夜となっていた。
俺は音もなく上空へと跳躍し、空中に留まる。
冷たい夜風にコートをなびかせながら、遥か東方の夜空を睨みつけた。
ここから真っ直ぐ東へと向かえば、数万の魔物に包囲されているというアドラステア帝国の首都に辿り着けるはずだ。
「さて、行くか」
誰に聞かせるでもなく呟き――
東へ向かって転移を繰り返した。




