第331話 視察2
「転移の魔人」アシュラフによる、空前絶後の大規模魔物召喚――。
王都を、そして世界を震撼させたあの悪夢から、二日が経過した。
昨日、俺は人間界を巡回し、自身の領地であるドワーフ領と同盟を組んでいるエルフの里を順に回った。
結論から言えば、どちらも目立った混乱はない。
俺が配置しておいた分体(キラー・マシーン三号機)と、エルフ独自の屈強な戦力が見事に噛み合い、押し寄せる魔物の波を「効率的に」処理していた。
追加の魔物召喚が行われる予兆はない。
「このまま何事もなく終わるなら、それに越したことはないんだがな……」
吐き出した独白は、冷ややかな朝露に溶けて消えた。
俺は次に、ザルツ山脈を領有するベルンシュタイン伯爵への面会を決めた。
転移魔法は便利だが、座標を把握している特定の場所へしか跳べないという制約がある。
広大な領地を自らの足で一歩ずつ見て回るよりは、中央に座す領主に会い、彼らが張り巡らせた通信魔法の情報網を活用させてもらう方が、効率という面では遥かに合理的だ。
標高の高いザルツ山脈の麓。
伯爵の居城を訪ねると、彼は思わぬ「闖入者」に驚きつつも、快く現状を話してくれた。
幸いなことに、この山脈付近に大規模な魔物の湧き点は存在しない。
山脈の奥深くに小規模な発生源こそあるようだが、麓には腕利きの冒険者たちが集う拠点、町「グラード」が控えている。
「魔物が出たと聞けば、彼らは『稼ぎ時だ』と笑って山へ入っていくでしょう。騎士団を動かすまでもありません」
伯爵の言葉通り、対魔物戦のプロである冒険者たちが、防波堤の役割を十二分に果たしていた。
俺の分体も念のために配置済みだ。
ここが破られるイメージは、今のところ湧かない。
***
次に向かったのは、獣人たちが住まう深い森だ。
ここもまた、屈強な戦士たちの宝庫である。
彼らは自然の驚異に慣れ親しみ、日常的に魔物と命を奪い合う暮らしをしている。
ザルツ山脈の奥地から溢れた魔物がこちらへも流れてきているようだが、森の木々を味方につけた獣人たちのゲリラ戦法の前では、獲物の数が増えた程度の認識でしかないだろう。
「次は、ヴァランティーヌ侯爵の様子でも見ておくか」
俺は思考を切り替え、獣人の森の南側――
帝国の国境を守るヴァランティーヌ侯爵領へと跳んだ。
侯爵は獣人族の森を抑え込むための重鎮であり、その軍事力は帝国内でも屈指の規模を誇る。
加えて、この周辺にも目立った魔物の湧き点はないはずだ。
これまでの順調な視察結果から、俺の心には「ここは挨拶程度で済むだろう」という、わずかな油断があった。
だが、転移を完了させ、侯爵の居城の門を潜った瞬間、鼻を突く「戦場の匂い」が俺の油断を吹き飛ばした。
城内は、まさに蜂の巣をつついたような大わらわだった。
鎧の擦れる金属音、走り回る伝令たちの叫び声、そして広間に漂う焦燥感。
俺の訪問が伝わると、ヴァランティーヌ侯爵はすぐに面会に応じてくれた。その顔には、隠しようのない疲労の色が刻まれている。
「世界規模の異変を察知し、情報収集をしているところです。――その様子を見るに、貴公の領地でも何か異常があったのですか?」
俺の問いに、侯爵は首を横に振った。
「いや、我が領内は概ね掌握できている」
「……では、この場内の騒ぎは?」
俺の問いを聞いた瞬間、侯爵の瞳に暗い影が落ちた。
彼は重々しく口を開く。
「……アイゼンバルト辺境伯領が、壊滅した」
***
その答えは、俺の想定を遥かに超えていた。
――一晩だ。
わずか一晩のうちに、帝国東側の防衛を担う広大な辺境伯領が、地図から消えかかっているというのか。
確かに、アイゼンバルト領の東には、この世界最大級の魔物の湧き点が存在する。
だが、あそこは代々「帝国の盾」を自負する辺境伯が、長年にわたり魔物の群れを抑え込んできた鉄壁の地のはずだった。
その戦力でさえ、アシュラフの召喚した魔物たちには太刀打ちできなかったらしい。
湧き出た魔物の数が、あまりにも多すぎたのだ。
広大な魔物の森との接点をすべて壁で覆うことなどできない。
要所に砦を築き、そこへ魔物を誘導して防衛していたが、数が膨れ上がれば砦を無視して領内へ侵入する個体も増える。
数万の魔物が一気になだれ込めば、もはやなすすべもない。
「……アイゼンバルトの奴め。自業自得と言えばそれまでだが、あまりに虚しい結末よな」
侯爵は吐き捨てるように言った。
魔物に対する防波堤であるはずの辺境伯は、あろうことか魔物の脅威よりも「隣接するヴァランティーヌ領」を奪う領地拡大に目を奪われていた。
アイゼンバルト辺境伯は自領を広げんとする野心に駆られ、東の防衛に割くべき主力兵力を、不自然なほど西側――つまりヴァランティーヌ領との境界付近へ移動させていたのだ。
「そこへ、予期せぬ魔物の大規模発生が起こり、その波が東から直撃した。守りの薄くなった防衛網など、あの魔物の津波を前にしては紙細工に等しかったようだ。領内へ入り込んだ魔物どもは今、手当たり次第に住民を蹂躙しておる……」
侯爵の声が、かすかに震える。
「蹂躙されているからこそ、今はまだ魔物の足が止まっている。民を食らっている間に時間を稼げているという、最悪の状況だ。だが、じきに奴らは辺境伯領を食い尽くし、飢えた状態で我が領地へと押し寄せてくるだろう。急ぎ防衛を強化せねばならんのだ」
侯爵が現在、なんとか戦線を維持できているのは、皮肉にもアイゼンバルト側の侵攻を警戒して、領地の南西(辺境伯領側)の防衛拠点を強化していたからだ。
だが、それも時間の問題だ。
辺境伯領から命からがら逃げてくる避難民の数は膨れ上がっており、その難民の列に紛れて、あるいは彼らの「血の匂い」を追って、魔物の本隊がやってくる恐れがある。
帝国周辺の湧き点は、そこだけではない。
辺境伯領が落ちたという事実は、大陸全体の防衛バランスが崩壊したことを意味する。既に無数の村や町が地図から消えているだろう。
俺たちが救えるのは、運良く生き残った人間と、かろうじて機能している生活インフラだけだ。
***
(これは……のんびりしている場合じゃないな)
俺の脳裏に、アシュラフの慇懃な笑みが浮かんだ。
奴の狙いは明確だ。
「人類の半数を生贄に捧げ、古の魔王を復活させること」。
魔人の言葉だ。
額面通りに受け取るのは危険だが、アイゼンバルト領の惨状を鑑みるに、奴が本気で「数」を削りにきているのは間違いない。
一人の犠牲も出さない、などという綺麗事を言うつもりはない。
だが、守れるはずの命を、出し惜しみして失うのは俺の主義に反する。
アシュラフがこの世界の半数を消し去るつもりなら――
その計算式を狂わせるまでだ。
俺は侯爵に短く別れを告げると、すぐさま屋敷へと転移した。
向かう先は、中庭の奥に鎮座する巨大な機体格納庫だ。
重厚な扉を押し開けると、そこには冷ややかな鉄の匂いが充満していた。
闇の中で、巨大な影が沈黙を守っている。
「……起動しろ。人手が足りないんだ、働いてもらうぞ」
俺が写し身の魔法で魂の一部を流し込む。
――ガギィ、と。
歯車が噛み合う不気味な音が静寂を破り、機体の眼部に禍々しい光が宿った。
キラー・マシーン一号機。
その無骨な鋼の体には、ただ「効率的に殺戮する」ためだけに磨き上げられた機能美が詰まっている。
戦力が足りないのなら、増やせばいい。
俺は白銀の機体を見上げながら――
これから始まる「戦争」への覚悟を静かに固めた。




