第328話 一歩も動けない
(王子リアムの視点)
血と硝煙、そして内臓が焦げるひどい悪臭が充満する夜の王都。
この国が崩壊するかどうかの瀬戸際であり、この場にいる誰もが死を覚悟した凄惨な戦場の中心に――ひどく場違いな、緊張感の欠片もない男がふらりと乱入してきた。
「あれ? 負けてる……。――おっ、そっちのゴロツキはゾルタンか。よう、久しぶりだな!」
深い闇に溶け込むような黒い戦闘服に身を包んだその男は、まるで休日の散歩道で知人にでも出くわしたかのように、リラックスした様子でゾルタンに親し気に話しかけている。
魔人の魔力に汚染されたゾルタンが放つ、大気を凍らせるような恐ろしい威圧感を微塵も受けていないようだった。
(なんだ……? あんな得体の知れない化け物と、知り合いなのか……?)
私は地面に這いつくばり、激痛に耐えながらその男――
ゼノス・グリムロックの姿を呆然と見上げていた。
数時間前、学園を襲った「執事の魔人」の絶対的な攻撃を防ぎ、結果として私の命を救った男。決して敵というわけではないだろうが、かといって素直に味方だと信じ切れるほど、彼の行動原理は読めない。
何より、彼の普段の学園での態度は、全く覇気がなく弱々しい雰囲気で、およそ戦いにおいては頼りにならなそうな男なのだ。
ゆえに、彼のこの場違いな登場に、この場の誰もが「助かった」と安心などしていない。むしろ、這いつくばる親衛隊たちの顔には、瞬間的に「一般人の足手まといが迷い込んできた」と、さらなる絶望の色が浮かんでいた。
私や騎士団が持つこの男に対する評価は、総じて「とにかく胡散臭い」の一言に尽きるのだ。
しかし、同時に思い出す。
この男が学園で「執事の魔人」と相対した時、決して怯むことなく、まるで同格の存在であるかのように平然と向かい合っていた、あの底知れない事実を。
現に今も、我々王国の最高戦力をいとも容易く圧倒した実力者であるゾルタンに対し、一歩も気圧されることなく、自然体で向かい合っている。
(まるで、とてつもない大馬鹿者が、自分の身の危険も顧みずに、腹を空かせた巨大な魔獣の鼻先で無邪気に遊んでいるように見える。――だが、ゼノス・グリムロックはどうやらあのゾルタンと顔見知りらしい。やはり、底が知れない、油断のならない男だ……。今は、この男の得体の知れない活躍に、王国の命運を賭けて期待するしかない……!)
私が連戦で本調子ではなかったとはいえ、王国最強の騎士団長であるサー・ガイウスですら、手も足も出なかった次元の違う相手なのだ。
たとえ私が魔力を回復させ、切り札である天使を召喚できたとしても、果たしてこの不死身のバケモノに勝てるかどうか――。
無念極まりないが、残念ながら現在の我々の武力では、この敵の進撃は止められない。
ゾルタンを相手に、ゼノス・グリムロックがどこまで戦えるか。
互角とまではいかなくとも、ある程度相手の力を削り、時間を稼いでくれれば……。
私は祈るような思いで――
胸の傷を押さえながら状況の推移を息を呑んで見守った。
***
「それにしても、お前がこんな表舞台に駆り出されているとはな」
ゼノスは顎を掻きながら、世間話の延長のような軽いトーンで問いかけた。
「あの「執事服の魔人」の狙いは、本当に『古の魔王』の復活なのか? 悪いが、こっちも色々と状況が見えなくてな。とにかく今は正確な情報が欲しいんだ。お前が知ってること、全部大人しく教えてくれ」
その図々しい要求を聞いた瞬間、ゾルタンの表情から薄ら笑いが消え去った。
「……あ?」
顔を縦に走る三本の爪痕が、怒りで醜く歪む。
鋼鉄のような全身の筋肉が尋常ではない大きさに隆起し、血管がドクン、ドクンと不気味に波打った。
「気安く声を、かけてくるんじゃねェェェーーッ!!」
夜の王都を震わせるほどの、獣のような咆哮。
「俺はなァ! ずっと、ずっとお前のことを殺したかったんだよ! 俺が今こんな不死身の化け物みたいな目に遭っているのも、全てはお前が原因だろうが! 殺してやる……絶対に殺してやるぞ、ゼノス・グリムロック!!」
血走った目で唾を飛ばし、狂ったように叫ぶゾルタン。
ゼノスに対し、尋常ではない、気が触れるほどの相当な恨みを溜め込んでいたみたいだ。あの人を小馬鹿にしたようなゼノスの態度を見ていると、ゾルタンがキレる気持ちは、私にも少しだけ分からなくもなかった。
しかし、向けられたゼノス本人はというと、大きなため息を一つ吐いた。
「……あのさぁ。お前、大して強くないんだから、そんな無理すんなよ。――それと、夜中にでかい声を出すな。近所迷惑だろ?」
***
ピキリ、と。
ゾルタンの中で、決定的な何かが切れる音がした。
「…………殺す」
低く、地獄の底から響くような怨嗟の呟き。
直後、禍々しい漆黒の魔力の奔流が、間欠泉のようにゾルタンの全身から天に向かって溢れ出した。
空気が重い。
呼吸をするだけで肺が焼けるような錯覚に陥るほどの、濃密な死のプレッシャー。
先ほどまで結界の周囲で狂乱して暴れ回っていた無数の魔物たちでさえ、その絶対的な恐怖に本能を縛られ、完全に動きを止めて震え上がっていた。
弱々しい雰囲気のゼノスと、怒りで理性を飛ばした圧倒的強者のゾルタンが、正面から向き合う。
――ダメだ!
逃げろ、ゼノス・グリムロック!
私が声にならない警告を発しようとした次の瞬間には、ゼノスの体はゾルタンの暴力によって木っ端微塵に砕け散るだろう。
この場の誰もがそう思い、目を背けようとした。
しかし――。
――どがッ!!
鈍い、岩盤を砕くような打撃音が夜の空気を震わせた。
吹き飛んだのは、ゼノスではない。ゾルタンの巨体が、くの字に折れ曲がり、大きく後方へと仰け反っていたのだ。
(なっ……!? 動きが、全く見えない……だと!?)
私の動体視力をもってしても、ゼノスがいつ、どのように攻撃を放ったのか、欠片も知覚できなかった。ゾルタンの恐るべき突進の初動を完全に封じるように、ゼノスの拳が顔面にクリーンヒットしていたのだ。
「がァッ!? てめェ……!」
体勢を崩しながらも、ゾルタンは怒り狂って太い腕を振り回そうとする。
だが。
――ドスッ!
――バギィッ!
彼が右拳を握り込もうとした瞬間、その右肩の関節にピンポイントで打撃が打ち込まれる。
彼が地を蹴って距離を詰めようとした瞬間、その太ももの筋肉の急所を無慈悲な蹴りがえぐり取る。
ゾルタンがゼノスを攻撃しようとするたびに、その全ての動きの『初動』を、ゼノスの神速の打撃が先回りして制していく。
ゾルタンは、一歩も前へ動けない。
反撃の拳を振り上げることすら、許されない。
先ほどまで我々を絶望の淵に叩き落としていた不死身の怪物が、今はただ防戦一方の、巨大で哀れなサンドバッグと化していた。
***
「ぐ、おォォ……ッ! 貴様ァ! 許さん、絶対に許さんぞ! その細腕、一本残らず引きちぎってやる!!」
全身をボロボロにされながらも、超再生の力で傷を塞ぎ、ゾルタンは血だらけの顔で牙を剥く。
「ふーん。なら、やってみろよ」
ゼノスは、冷酷なまでに感情の無い声で言い放った。
「馬鹿は死なないと治らないみたいだな」
――どッ!!
ゼノスの滑るような踏み込みからの、掌底。
それがゾルタンの分厚い胸板に深々とめり込んだ瞬間。
――ばちィィィッ!!
という、空気が焼き切れるような異音と漆黒の火花が、重い打撃音と同時に弾け飛んだ。
ただの物理攻撃ではない。
ゼノスの掌底から、何らかの特殊攻撃が直接体内に叩き込まれたのだ。
その一撃を食らった後、不死身の超再生を誇っていたゾルタンは白目を剥き、全身を激しく痙攣させながら、ドスンと無様に両膝を突いた。
「どうだ。ビリビリ痺れて、指一本動かせないだろ」
「……なっ、なに……を……貴様……」
涎を垂らし、声すらまともに出せなくなったゾルタンの肩を、ゼノスががっしりと掴む。
「じゃ、大人しくなったところで、いこうか?」
「ま、待て……どこへ……」
「魔界」
ゼノスが短くそう告げた瞬間、二人の姿は空間の揺らぎと共に、ふっと夜の闇の中へと掻き消えてしまった。
後には、血なまぐさい風と、あまりの展開の早さに呆然と座り込む我々だけが残された。
脳の処理能力が完全に追い付かない。
得体の知れない男が、突然現れて、得体の知れないバケモノを一方的に蹂躙し、連れ去ってしまったのだから。
だが――
私には、いつまでも地面でぼーっとしている暇などなかった。
(そうだ、敵の親玉がいなくなったのなら、今のうちに……!)
「総員、構えろ!! 魔物の動きが止まっている今が好機だ!」
私は痛む体に鞭打って剣を杖代わりに立ち上がり、動揺する親衛隊に向けて力強く檄を飛ばした。
王子の責務を果たすため、私は再び、王都を埋め尽くす魔物掃討戦へと身を投じていった。




