第327話 人類の滅亡間際
(王子リアムの視点 一人称)
血と硝煙の匂いが立ち込める王都の夜。
私は親衛隊、そして信頼する二人の側近と共に、街路に溢れ出した大量の魔物との死闘を繰り広げていた。
被害の拡大を防ぐため、我々は部下たちの魔力を結集して巨大な「光魔法の結界」を構築し、そこを拠点として魔物の殲滅を開始した。聖なる光に焼かれるのを恐れ、下級の魔物たちは結界の周囲で忌々しげに唸り声を上げている。
戦況がわずかに膠着し、少しの希望が見え始めた矢先だった。
ズン……ッ!
大気が、重く震えた。
暗闇の奥から、一人のゴロツキのような男が悠然と姿を現したのだ。
その瞬間、私は息を呑み、全身の産毛が総毛立つ異常な恐怖を覚えた。
光の結界の中にいるというのに、まるで氷水に浸かったような寒気が背筋を駆け上がる。
男の体から漏れ出ているのは、数時間前に戦った「ルカ・ドルトン」にも匹敵する、いや、それ以上に濃密で凶悪なプレッシャーだった。
年齢は四十代半ばといったところか。
身に纏う薄汚れた服の隙間から覗く全身は、数え切れないほどの無数の傷跡で覆われている。特に目を引くのは、厳つい顔面を縦に走る、まるで巨大な獣に引き裂かれたような三本の深い爪痕だ。
限界まで鍛え上げられた鋼のような肉体。無造作に剃り上げられた頭部。
そして極めつけは、太い右腕全体に彫り込まれた、巨大なドラゴンと剣が交差する悍ましい刺青だった。
そいつは、極度の緊張で身構える我々を小馬鹿にしたような、歪んだ笑みを浮かべて語りかけてきた。
「よォ。俺の名はゾルタンっていうんだ。……まあ、ちょっとばかり訳あってな。この王都、一つ残らずぶっ壊させてもらうぜ」
***
「ふざけるな! そうはさせるかッ!」
男のふざけた宣言が終わるか終わらないかの刹那、側近のアルドリックが地を蹴った。
彼の身体の大きさは、筋骨隆々のゾルタンにも決して引けを取らない。
しかも、その巨体に似合わぬ疾風のようなスピードを兼ね備えている。
踏み込みの勢いと共に腰の捻りを乗せた、アルドリックの渾身の右ストレート。
鋼鉄の鎧すらも容易く陥没させるその一撃が、無防備なゾルタンのこめかみへと完璧に吸い込まれた。
――どごォッ!!
頭蓋骨が砕けるような鈍い衝撃音が夜の街に響き渡る。
勝負はついた。誰もがそう思った。
しかし――。
「おいおい、いきなり不意打ちかよ。随分と卑怯な真似をしやがって」
私の目は、信じられない光景を見開いていた。
ゾルタンは戦う構えすら見せていなかった。
ただ、両手を下げてヘラヘラと笑いながら立っていただけだ。
そこにアルドリックの必殺の拳が、間違いなくクリーンヒットした。
だというのに、男の首は数ミリたりとも動かず、その巨体は微動だにしていなかったのだ。
苦痛すら感じていない。
強がっているわけでもない。
アルドリックの拳は、正真正銘、ダメージらしいダメージを一切与えられていなかった。
「なっ! ばか、な……!?」
「隙だらけだぜ、デカブツ」
アルドリックが驚愕に目を見開いた直後、ゾルタンが虫を払うような軽い動作で拳を繰り出した。
――どがッ!
「ぐ、ほォッ……!」
たったそれだけの動作で、アルドリックの巨体が紙屑のように宙を舞い、数十メートル後方の石壁に激突して崩れ落ちた。
「くっ……アルドリック!」
事態の異常性を察知したエリオットが即座に駆け寄り、治癒効果の高い水の魔力を手に集めて友の治療を行おうとする。
だが。
「はっ! 戦場でのんびり治療だァ? それを俺が許すわけないだろ!」
――どかっ!
縮地にも似た歩法で一瞬にして間合いを詰めたゾルタンの蹴りが、エリオットの鳩尾に深々と突き刺さった。エリオットはくぐもった悲鳴を上げ、血を吐きながら崩れ落ちた。
冷や汗が止まらない。
あの男の体から感じている魔力は、間違いなく我々と対極にある「闇属性」のものだ。
だというのに、闇を浄化するはずのこの強力な「光の結界」の只中で、私の優秀な側近二人を赤子のように圧倒した。
今日戦った、強力な魔人の力に侵されていたルカ・ドルトンも恐ろしい強さだった。だが、アルドリックやエリオットが、ここまで手も足も出ずに一方的に蹂躙されることなどあり得なかった。
***
「王子! 危険です、すぐにお下がりください!」
危機的状況に、親衛隊隊長のサー・ガイウスが名剣を抜き放ち、前に出る。
同時に、彼を後方から援護する三名の熟練魔法兵たちが、一斉に高位の攻撃魔法の詠唱を完了させた。
魔物掃討戦の最中であり、貴重な魔力の消費配分は厳密に計算して行わなければならない。
だが、目の前の規格外の化け物相手では、一滴の出し惜しみも死を意味する。
「消し飛べェッ!!」
――ゴォォォォオオオオオオッ!!
――ザシュウゥゥゥッ!!
夜の闇を真昼のように照らす二つの極大火炎魔法の直撃が、ゾルタンの体を猛火で包み込む。
さらに間髪を入れず、風魔法によって生み出された不可視の真空の刃が、炎ごと敵の肉体を切り刻むべく殺到した。
凄まじい爆炎と土煙。
そこへ、サー・ガイウスが戦鬼のような気迫と共に踏み込み、必殺の剣撃を振り下ろした。
「おいおい、マジかよ。王国騎士団の精鋭ってのは、こんなに弱かったのか?」
土煙が晴れた先。
ガイウスの渾身の斬撃を、ゾルタンは顔色一つ変えずに『素手』でガッチリと受け止めていた。
手のひらから幾筋かの血が滲み出ているが、ただそれだけだ。
名剣の刃は、男の骨を切断するに至っていない。
その前に直撃していたはずの炎と風の複合魔法も、衣服を焦がし皮膚に浅い傷を与えはしたが、致命傷には程遠かった。
「まだだッ!!」
私は自らの剣を抜き放ち、左手に極限まで圧縮した光魔法の光弾を形成した。
サー・ガイウスを射線から外すため素早く横へ回り込み、ゾルタンの死角となる真横から光弾を至近距離で放つ。それと同時に、刀身に眩い「聖光気」をまとわせた剣で、渾身の力で斬りかかった。
(本当なら、すぐに天使を召喚し共に戦いたいところだが……今の私の残存魔力では、これが限界だ! 頼む、効いてくれ!)
ズガァァンッ!!
光弾が男のわき腹に直撃して炸裂し、私の剣がゾルタンの胸元の肉を斜めに深く切り裂いた。
確かな手応えがあった。
「あー……なんだよ。この国で一番強ぇ奴が来るっていうから、わざわざ期待して待っててみれば。……たったのこの程度かよ」
ゾルタンの口から漏れたのは、苦痛の声ではなく、底知れない失望の吐息だった。
全身に戦慄が走る。
本調子ではなく、切り札である天使の援護がないとはいえ、私の全力の攻撃とガイウスたちの猛攻を重ねても、この男を倒すことができないなんて。
「つまんねぇな。……おらっ!!」
――どがァァッ!!
ゾルタンの裂帛の気合と共に、砲弾のような速度で繰り出された掌底。
大気を圧縮したようなその衝撃波をまともに食らい、私とガイウスの体は、枯れ葉のように無惨に後方へと吹き飛ばされた。
***
「ぐ、ああぁっ……!」
石畳に叩きつけられ、全身の骨が軋む痛みに呻きながら、私は絶望的な光景を目の当たりにした。
周囲で結界を維持している親衛隊たちは、四方から押し寄せる魔物の群れを食い止めるだけで手一杯であり、こちらを援護する余裕など全くない。
そして何より恐ろしいのは――。
グチャリ、メキメキ……。
ゾルタンが負った胸の切り傷や火傷が、まるで意思を持った生き物のように蠢き、みるみるうちに肉を繋ぎ合わせて完全に回復していく光景だった。
「驚いたか? 俺はよ、そう簡単には『死ねない身体』に作り替えられちまってるのさ」
ゾルタンは新しく再生した皮膚をさすりながら、自嘲するように笑った。
「残念だったな、王子様。……俺も残念だぜ。いっそ、お前らに気持ちよく殺して欲しかったってのによォ」
結界の中心で、この場における――いや、この国の最高戦力である我々四人が、文字通り手も足も出ずに地に伏せている。
強すぎる。
何もかもが規格外だ。
(……もう、終わりだ。王国は、ここで……)
私が全てを諦め、瞳を閉じるしかなかった、その時だった。
「あれ? なんか負けてる……。えぇ~、マジかよ。えっと、死んでないですよね、殿下。――ああ、よかった。なんとか生きてるみたいだ」
死と絶望が支配するこの凄惨な戦場に、全く相応しくない。
緊張感の欠片もない、どこか呑気で間延びした声が、夜の静寂を破って静かに響き渡った。
「――おっ、そっちで暴れてるゴロツキは……ゾルタンか。よう、久しぶりだな!」
闇の中から足音を立てずに現れたその人物は、まるで散歩の途中で知人にでも出会ったかのように、気さくに化け物へと声をかけたのだ。




