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第323話 ちょっと、落ちてくる。

 眼下で暴れ狂う【猿王】ハヌマン・シャーは、全身から凄まじい熱波を放ち、周囲の森を容赦なく灰に変えていた。


 先ほど討伐した「蟲の魔人」【万軍母】ベル・ゼ・アラクネと、この「サルの魔人」。


 この二人を比較して、同盟相手である「樹木の魔人」豊穣のデメテルは、ベル・ゼ・アラクネの方が森にとってより厄介な存在だと直感的に感じ取り、その討伐を俺に最優先で依頼してきた。


 実際に戦ってみて、その判断は正しかったと俺も思う。

 「蟲の魔人」の上半身は、叩き潰された後に無数の不快なハエの群れへと変化し、触れたものをドロドロに溶かす凶悪な「腐食攻撃」を仕掛けてきたのだ。


 あれが森全体に広がっていれば、取り返しのつかない大惨事になっていたはずだ。

 非常に厄介な相手であり、彼女の戦況を見極める見立ては完璧だった。


 しかし、だからと言って、今目の前で咆哮する「サルの魔人」ハヌマン・シャーが弱いかといえば、決してそんなことはない。


 むしろ、広範囲の樹木を一瞬で焼き払う高火力な炎魔法の使い手であるこの「サルの魔人」も、この環境下においては最悪に近い厄介な相手だ。


 次期魔王候補の筆頭であるオルカスが打ち取ったという「炎獄の魔人」は、魔界全体で見ても五本の指に入るほどの規格外の実力者だったと聞く。


 おそらく、純粋な炎の火力や戦闘力だけで言えば、「炎獄の魔人」は目の前の猿王よりもはるかに強いのだろう。


 ならば、「炎獄の魔人」と同格とされる強力な「樹木の魔人」たちからすれば、猿王の討伐などたやすいかというと、現実はそう甘くはなかった。


 敵は単独ではなく複数で徒党を組み、さらには数万という配下の魔物を大勢従えて、波状攻撃を仕掛けるように進行してきているのだ。


 防衛網は引き伸ばされ、戦力は分散させられている。

 さらに言えば、戦闘には絶対的な「相性」が存在し、ステータス上の「強者」が必ずしも勝つとは限らない。


 木は炎によって燃える。

 その単純な理屈が、今、樹木の魔人たちを大いに苦しめているのだ。


 ならば、俺もその「相性」というものを最大限に考慮して戦うべきだろう。


 俺は燃え盛る猿王から一旦視線を外し、懐から極低温を放つ「氷属性の魔石」を取り出した。

 そして、熱気に歪む上空を真っ直ぐに見上げる。


 先ほど蟲の魔人を強襲した時と同じように、俺は一瞬にして高度一万メートル――魔界の分厚い雲が立ち込める、極寒の上空へと転移した。



 ***


「シルフィー、出てこい」


 転移直後、身を切るような冷たい風が吹き荒れる上空で、俺が短く呼びかける。

 その声に応え、胸元から淡い緑色の光が溢れ出し、風の守護精霊シルフィーがふわりと実体化した。


 俺たちは重力を無視する浮遊魔法を使い、分厚い雲海の上空にピタリととどまりながら、手短に打ち合わせを開始する。


「なんじゃ、あるじよ。早う、あの下で燃えとる忌々しいサルめを始末するのじゃ」


 眼下の惨状を感じ取っているのか、美しい森を燃やす魔物が大嫌いなシルフィーが、プンプンと怒ったように腕を組んで俺を急かしてくる。


「なによ、あんた。またさっきみたいに、ここから真っ逆さまに落ちるつもり?」


 俺の肩にちょこんと乗っている豊穣のデメテルの分体も、呆れたような声で話に加わってきた。


「まあ待て。奴を倒すのはもちろんだが、その前に、やっておくべきことがある。――これから、この森に雨を降らすぞ」


 俺の突拍子もない言葉に、二人がきょとんとした顔になる。


 現在、地表では広範囲にわたって森が激しく燃えており、その尋常ではない熱気と焦げ臭い煙が上空にまで立ち昇ってきている。

 そして、この魔界の上空は、太陽の光を遮るように常に分厚く重たい雲がすっぽりと覆い尽くしている。


 俺は手に持った「氷属性の魔石」に、自身の魔力を大量に流し込んだ。


 パキパキパキッ!

 という硬質な音と共に、魔石の力が増幅され、俺の周囲の空気に含まれる水分が次々と凍りつき、大量の小粒の氷が生成されていく。


「俺が作ったこの無数の氷の粒を、シルフィー、お前の風魔法で一気にあの分厚い雲の中へと飛ばして散布してほしい」


 俺の意図を汲み取りきれていないデメテルが、小首を傾げる。


「……そんな回りくどいことしなくても、ここからその氷を巨大な塊にして、真っ直ぐあのサルにぶつければいいんじゃないの?」


「いや、単調な直線攻撃では避けられる可能性が高い。それに……今も燃え広がり続けている森の延焼を、何とかして食い止めたほうがいいだろう」


 なにしろ、この巨大な森自体が、樹木の魔人たちにとっての最大の防衛兵器であり、こちらの戦力そのものなのだ。火元である猿王を倒したところで、森が焼け野原になってしまっては本末転倒だ。


「なるほど、おおかたの予想はつくが……面白そうではないか。やってみようぞ、主よ!」


 俺の狙いを理解したシルフィーが、楽しそうに笑みを深めた。



 ***


 というわけで、早速試してみることにした。

 俺は空に向けて、生成した極小の氷の粒をショットガンのように無数に射出する。


 それに合わせ、シルフィーが強烈な上昇気流を伴う風魔法を放ち、氷の粒を魔界の分厚い雲の深部へと万遍なく送り込んでいく。


 いわゆる「人工降雨クラウドシーディング」の魔法的応用だ。

 冷たい氷の粒が雲の中の水分と結びつき、急速に成長して重力に逆らえなくなって落下する。


 計画は見事に成功した。


 数分もしないうちに、重く垂れ込めていた雲から大粒の雨がポツリ、ポツリと落ち始め、あっという間に視界を白く染め上げるほどの土砂降りの大雨となったのだ。


 眼下の地表では、激しく燃え盛っていた炎が、この恵みの豪雨によって次々とジュウジュウと音を立てて鎮火していくのがわかる。


「やったわ! これなら延焼は防げるわね!」


 デメテルが肩の上で歓喜の声を上げる。


 だが、効果はそれだけでは終わらなかった。

 急激な気温の変化と、氷の粒が雲の中で激しく擦れ合ったことにより、分厚い雲自体が強烈な静電気を帯び始めたのだ。


 ――ゴロゴロゴロ……ッ!!

 ――ピカッ、バリバリバリバリッ!!


 ついでに雲が唸り声を上げ、腹の底に響くような重低音が鳴り出した。


 ただの雨雲が、凶暴な雷雲へと変化した瞬間だった。

 空を切り裂くような稲光を見つめながら、俺の脳内に、ある強烈な「閃き」が走った。



 ***


「……名案だな」


 俺はニヤリと口角を上げると、肩に乗っていた豊穣のデメテルの分体をそっと摘み上げ、隣で浮遊しているシルフィーの手に手渡した。


「え? ちょっと、なによ急に?」


 戸惑うデメテルと、不思議そうに首を傾げるシルフィー。

 俺は雷雲が渦巻く下界を見下ろしながら、二人に向かって極めて軽いトーンで告げた。


「ちょっと、落ちてくる」


 そう言い残すと同時に、俺は自身の切り札の一つである変身魔法を起動した。


「メタモルフォーゼ――タイプ・フェノメノン(自然現象化)」


 俺の肉体が、確かな質量を持った人間の姿から、眩い光を放つ純粋な「黒い雷」へと瞬時に変化する。


 意識が拡張し、周囲に渦巻く雷雲の膨大なエネルギーと完全に同化した。

 そして、俺は重力だけでなく、雷雲から地表へと向かう絶対的な「電位差」を利用し、文字通りの『落雷』となって地上へと撃ち下ろされた。


 その速度は、音速すらも遥かに凌駕する光速。


 地上で燃え盛っていた【猿王】ハヌマン・シャーが、上空の異変に気づいて顔を上げたその時には、もう全てが終わっていた。


 回避はおろか、瞬きをする暇すら与えない。

 漆黒の稲妻と化した俺は、天からの一撃となって、サルの魔人の頑強な体を頭頂部から股下まで、一瞬にして貫いていた。


 ――どぉおおおぉぉぉぉぉぉんッ!!!


 俺が敵の体を完全に焼き尽くし、大地に激突して実体を取り戻した、そのほんの一瞬後。


 遅れてやってきた空を裂くような巨大な落雷の轟音が、豪雨の降り注ぐ魔界の森にどこまでも響き渡った。

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