第321話 VS「蟲の魔人」
血の匂いと腐臭が渦巻く魔界の森林地帯。
同盟相手である「樹木の魔人」の絶対的な縄張りに、「サルの魔人」【猿王】ハヌマン・シャーと、「蟲の魔人」【万軍母】ベル・ゼ・アラクネが数万の軍勢を率いて強引に攻め込んできた。
俺は、肩にちょこんと乗る「豊穣のデメテル」の分体からの要請に短く応え、森との相性が悪いと推測される厄介な敵――「蟲の魔人」の討伐を最優先で開始する。
先ほどまで、俺は遥か上空から森全体の戦況を俯瞰して観察していた。
だが、ここからではまだ『高度が足りない』。
俺は魔力を練り上げ、一気に「上空一万メートル」という極寒と希薄な空気の領域まで、さらに転移で垂直に移動した。
眼下には、赤黒い大地を這う絨毯のような広大な森が豆粒のように見えている。
そこで、俺は自身を支えていた浮遊魔法のスイッチを切った。
――ヒュウウウウウウウウッ!!
重力に従う自然落下。
俺が好んで使う、お馴染みの「不可避の速攻」の起点だ。
上空から隕石のように高速で真っ逆さまに落下しながら、俺は専用の魔剣『クロノス・ヴァイス』を鞘から抜き放ち、切っ先を真下へ向けて構える。風圧で服が千切れそうにバタつき、大気が耳元で轟音を立てて咆哮する。
ターゲットは眼下の爆心地で暴れ回る「蟲の魔人」ベル・ゼ・アラクネ。
上半身は月明かりのように透き通るような肌を持つ妖艶な美女の姿をしているが、その下半身は蜂の腹部と蜘蛛の多脚を禍々しく融合させたような巨大な甲殻。
大きさはざっと見ても3メートルは優にあるだろう。
(的の大きさとしては、申し分ない)
落下速度は、もはや音速を超えようとしていた。
普通なら自身の激突ダメージで自爆する速度だが、俺には「精霊王の加護」の絶対的なサポートがある。
その恩恵により、ダメージカットの防御魔法「プロテクション」を、常に100パーセントに近い精度で展開することができるのだ。
さらに、俺には「時止め」の魔法がある。
周囲の時間をほんのコンマ数秒だけ停止させ、落下軌道をミリ単位で微調整することも可能だ。
敵の遥か頭上、完全なる死角からの音速の強襲。
――のはずだった。
だが、相手は一筋縄ではいかない「蟲の魔人」。
上半身に付いているのは確かに人型の体なのだが、その複眼の視野は人間とは比較にならないほど広角で、かつ動体視力も異常に発達しているらしい。
ベル・ゼ・アラクネは、真上から流星のごとく落ちてくる俺の圧倒的な接近に直前で気づき、その巨大な多脚を瞬時に弾いて、凄まじい反射神経で回避行動をとったのだ。
***
「逃がすかよッ!」
俺は時止めの魔法を連続で発動し、敵の回避行動に完璧に合わせるように落下方向を強引に微調整した。
そして次の瞬間。
俺は、ベル・ゼ・アラクネの美しい人型の脳天に、魔剣「クロノス・ヴァイス」の切っ先を容赦なく叩き込み、そのまま己の体重と落下エネルギーのすべてを乗せて突き入れた。
――ずしゅぅううううううッ!!
分厚い肉と硬い骨を無理やり引き裂く、生々しくも重たい破砕音が響き渡る。
勢いよく突き刺した剣は、美女の頭部をスイカのように易々と破壊し、そのまま首、胴体へと、縦に体を突き抜けていく。
止まらない。
俺自身の体も、凄まじい慣性に引っ張られて、引き裂かれた敵の肉の断面へと深くめり込んでいく。
自分自身を巨大な徹甲弾と化して、「蟲の魔人」ベル・ゼ・アラクネの上半身を文字通り木っ端みじんに粉砕した。
――ズドォォォォォォォォォォンッ!!!
俺の体が魔界の赤黒い地面にまで激突し、周囲の土と木々を吹き飛ばす。
着弾の衝撃で視界が土煙に覆われ、俺の足元にはちょっとした隕石のクレーターのような穴ができあがっていた。
土煙が晴れると、そこには異様な光景が広がっていた。
ベル・ゼ・アラクネの美女の上半身は完全に跡形もなく消し飛んだというのに、その下半身である蜘蛛と蜂の多脚の甲殻部分は、ほぼ無傷のまましっかりと大地を踏みしめて立っていたのだ。
(……。やはり、まだ生きてやがるな)
俺はクレーターの中心で剣を構え直した。
頭を潰したというのに、下半身の甲殻からは未だに肌が粟立つほどの強烈なプレッシャーが放たれており、内包する残存魔力の膨大さから、敵が確実に行動可能(生存している)であることを示していた。
俺は一切の油断を捨て、極限の戦闘態勢を維持する。
***
――ぶぅううううん!
――ぶぶぶぶぶぶぶぶぅうううううん!!
不意に、無数の不快な羽音が森の奥深くから響き始めた。
見れば、俺の一撃で周囲に飛び散ったベル・ゼ・アラクネの上半身の肉片……そのドロドロの血液や千切れた肉塊の一つ一つが、なんと真っ黒な「ハエ」へと急速に変質していくではないか。
空を舞う無数のハエ。
そいつらは瞬く間に空中で三つの巨大な群れ(スウォーム)を形成し、こちらに向かって一斉に襲いかかってきた。
空を覆う、黒い塊となった何万匹ものハエの群れ。
その光景は、生理的な嫌悪感を極限まで刺激する。
「ちょっと、やだっ! キモチワルイ!」
肩の上の「豊穣のデメテル」の分体が、悲鳴のような声で叫んだ。
「あのハエ、凶悪な『腐食能力』持ちじゃない! あんたも気をつけなさい! あのままじゃ森が溶けるわ、早く駆除してよ!」
デメテルが、敵の厄介すぎる性質をいち早く知らせてくれた。
(腐食能力、だと? ってことは、あれに直接まとわりつかれると、肉体ごとドロドロに腐るってことか。冗談じゃない、厄介すぎるだろ……)
見れば、あの黒い塊が通過し、ほんの僅かに触れただけの巨大な木々の葉や太い枝が、一瞬にして茶色く変色し、泥のように腐ってボトボトと溶け落ちていく。
剣で斬り払おうにも、敵の一匹一匹の的が小さすぎる上に、圧倒的に数が多すぎる。
いかに俺の加速魔法で神速の剣を振り回したところで、あの数の完全な殲滅は物理的に不可能に近い。
(それに、あの腐食呪術まみれのハエを、愛剣で直接斬っても大丈夫なのか?)
刃がボロボロに錆び、取り返しのつかないダメージを受ける可能性が脳裏をよぎる。
『主よ……わらわのことを大事にするのじゃ! あんな汚い蟲、絶対に斬りとうないぞ!』
俺の思考に呼応するように、「クロノス・ヴァイス」に宿る気位の高い神樹の守護精霊・シルフィーが、俺の脳内に直接、必死の拒絶の声を響かせた。
(……わかってる。お前を汚すつもりはない)
俺は即座に決断し、「クロノス・ヴァイス」をカチャリと音を立てて鞘に仕舞い込んだ。
両手を開け、無手の状態となる。
そして、全方位から迫り来る敵の襲撃を、真っ向から待ち構えた。
***
無数の腐食バエが集まった三つの黒い塊は、意志を持っているかのように空を不気味に周回し、狙いを定めて俺に向かって全方位から突進してきた。
俺は目を細め、空間把握能力を極限まで研ぎ澄ませる。
風の動き、羽音の重なり、魔力の揺らぎ。
そのすべてを脳内で処理する。
そして、黒い群れの先端が、俺の射程圏内に入ったその瞬間。
俺は「加速魔法」と、もう一つの切り札である「変身魔法」を同時に起動した。
「変身魔法――タイプ・フェノメノン(自然現象化)」
俺は自らの左右の両手の先から先までを、物理的な肉体から、実体を持たない純粋な「黒い雷」へと完全に変化させた。
パチッ、バチバチバチッ!!
空間を焦がすような紫電が弾け、周囲の空気がオゾン臭で満たされる。
その超高圧の雷へと変質した両腕を鞭のようにしならせ、迫りくる真っ黒なハエの群れに向かって、時を加速させた神速で何度も何度も空間を切り裂いた。
斬るのではない。
一万度を超える超高温の黒雷による、絶対的な『焼却攻撃』だ。
「消し飛べ――『黒雷百閃』!!」
閃光。轟音。
俺の放った無数の黒い雷の軌跡が、巨大な檻のように空間を切り刻む。
敵の群れが俺の体に一匹たりとも到達するよりも早く、宙を舞っていた数万の腐食バエは、黒雷の熱量に触れた瞬間に「ジッ!」という短い音だけを残して炭化し、塵となって虚空に消滅した。
向かってきたすべての厄介な敵の群体を、俺は一歩も動くことなく、完全に殲滅したのだった。




