第314話 手合わせ
むせ返るような濃密な緑の匂いと、大気中に満ちる圧倒的な生命の気配。
俺は今、赤黒い瘴気に覆われた魔界の中にあって、そこだけが異常な清浄さを保っている森林地帯の最深部へと足を踏み入れていた。ここが、外部の干渉を一切許さない『樹木の魔人』たちの絶対的な縄張りだ。
そして視線の先、天を支えるかのような超巨大樹の根元に、俺はこの区域の支配者である主を見つけた。
『大樹母アルラウネ・シルヴァ』。
全ての樹木の魔人の始まりである彼女は、黄金色に輝く苔の絨毯の上で、心地よさそうに身を横たえて寝そべっている。
これだけ堂々と近づいている以上、俺の接近にはとっくに勘付いているはずだが、彼女は身じろぎ一つせず、閉じた瞳を開こうともしない。
(さて、平和的に話はできるかな)
これまで俺は、自身の障害となる魔界の有力な魔人勢力を見つければ、力でねじ伏せて削ってきた。
だが、今回の相手とは話が通じそうであれば、無駄な血を流さずに『同盟』を組みたいと考えている。だからこそ、俺は得意の奇襲を仕掛けず、堂々と正面から彼女の下へ赴く道を選んだのだ。
俺は空間の座標を固定し、一瞬の転移魔法で彼女のすぐそばの空中へと移動した。
すかさず浮遊魔法を展開し、空中にふわりと留まって静止する。
至近距離まで近づいてみて、改めて大樹母アルラウネ・シルヴァの規格外の大きさがわかった。彼女は人間と同じ美しい女性の姿をしているが、そのサイズ感ははるかに大きい『巨人』なのだ。
(全長は……五メートルくらいはあるかもしれないな)
俺が設計し、製作した『キラー・マシーン二号機』と大体同じくらいの巨体だろうか。
寝そべってリラックスしている状態。
だが、その顔立ちは母性すら感じさせる慈愛に満ちた美女の姿でありながら、生命の源流としての底知れぬ大迫力を漂わせている。
やがて、それまで静かに目を瞑っていた彼女が、ゆっくりと長い睫毛を震わせて目を開いた。
深い森の湖面のような、エメラルドグリーンの瞳が俺を真っ直ぐに射抜く。
よし、まずは自己紹介だ。
コミュニケーションを試みよう。
――と、俺が口を開こうとした、まさにその刹那だった。
**
――ずおおおおおっ!!
大地の底から鳴動するような不気味な音が響いたかと思うと、俺の真下の地面が爆発するように弾け飛んだ。
土煙を突き破り、無数の太い茨が、まるで意思を持った大蛇のごとく一直線に伸びてきて、空中にいる俺の四肢を無慈悲に絡めとろうと襲いかかってきた。
「……ッ!」
俺は即座に思考を戦闘モードへと切り替え、変身魔法を起動する。
全身の細胞を物理法則から逸脱した『黒雷』へと変換。
迫り来る茨の刃が俺の残像を切り裂くよりも早く、俺は漆黒の稲妻と化して空を駆け、光速でその凶悪な包囲網から脱出した。
大きく距離を取った上空で変身を解き、再び人間の姿に戻る。
遅れて、どぉおおおおおん!
という空気を揺るがす凄まじい轟音と、茨同士が空中で激突する破壊音が響いてきた。
(いきなりの強襲か。言葉を交わす気はないってことか? いや、まだ来たばかりでこちらの意図が伝わっていないだけだ)
俺が上空から冷静に状況を分析し直そうとした、その時だ。
**
音もなく。
気配すらもなく。
空中に浮かぶ俺の背後に、灰色の影がひっそりと忍び寄っていた。
がっ!
唐突に、誰かの冷たい手が俺の肩を背後から力強く掴んだ。
「くっ……!?」
背筋が凍るような悪寒。
背後に迫っていたのは、『虚樹のネメシア』。
枯れ木のようなひび割れた灰色の肌を持つ彼女は、触れた対象の周囲の魔力を根こそぎ吸い尽くし、瞬時に枯死させるという『死の樹木』の化身。掴まれた肩口から、俺の体内の魔力が濁流のようにごっそりと吸い出されていく感覚が走る。
一秒でも早く、離脱しなければ――
長く触れられていれば干からびる。
俺は再び自らを『黒雷』へと変質させ、物理的な拘束を無効化してその場を緊急離脱した。
間一髪だった。
かなり魔力を吸い取られてしまい、全身に軽い倦怠感が走る。
安全圏と思われる離れた場所まで逃れ、変身を解いた。
だが、この森に安全圏など存在しなかった。息をつく間もなく、凄まじい追い討ちがかかる。
シュガァァンッ!
と空気を切り裂く音と共に、今度は木々の隙間から伸びた真紅の茨の弦が、幾重もの鞭となって襲いかかってきたのだ。
操っているのは、『茨姫ロゼ・ソーン』。
燃えるような真っ赤な髪をなびかせ、凶器のような茨で編まれたドレスを纏う好戦的な魔人だ。
「舐めるなよ!」
俺は腰に帯びた剣を瞬時に抜き放ち、魔力を込めた刃で全方位から迫る茨の群れを次々と斬り伏せ、強引に包囲網を突破する。
だが、攻撃は物理的なものだけでは終わらない。
不意に、うっそうと茂る森の暗がりの中から、甘く、ねっとりとした強烈な視線を感じた。
『翠蘭のヴェノマ』。
彼女とわずかでも視線が交差すれば、その瞬間に脳髄が甘く痺れ、精神を深く陶酔させられて、自ら進んで彼女の養分たる「肥料」になりたいという狂気の欲求に支配されてしまう。
(これはっ……視線による精神攻撃か……!)
俺は慌てて視線を外したが、陶酔の呪縛によってほんのわずかだけ動きが鈍ってしまった。視覚情報による術式の刷り込みは、「魔封印」では防げないらしい。
そして、その一瞬の隙を見逃す彼女たちではない。
風に乗り、淡く光る不気味な粉のようなものが大量に襲いかかってきた。
『豊穣のデメテル』が放つ、死と再生の胞子。
これを少しでも吸い込めば、敵対者の肉体は『急速な老化』を引き起こし、やがて生きたまま植物化してしまうという悍ましい状態異常攻撃だ。
回避は間に合わない。
俺は咄嗟に『身代わり術式』の呪文を唱えた。
俺に降りかかるはずだった植物化の呪いは、空間を越えて屋敷で留守番をしているゴブリンの一匹へと肩代わりされる。
***
死の胞子をすり抜けた俺は、この際限のない波状攻撃の連鎖を断ち切るため、一気に本丸へと仕掛けることを決断した。
三度、自身を『黒雷』へと変質させる。
空間を一直線に貫く漆黒の閃光となり、魔人たちの包囲網を光速で置き去りにして、俺は大樹母アルラウネ・シルヴァの目の前、鼻先数十センチの距離へと降り立った。
そして、鞘に剣を納め、両手を広げてみせる。
「待て。今日は戦いに来たんじゃない。とりあえず、俺の話を聞いてくれ」
一切の敵意を収め、真っ直ぐに彼女の目を見て放った言葉。
「…………」
俺の問いかけに対し、大樹母アルラウネ・シルヴァは相変わらず無言のまま、静かな瞳でこちらを見つめ返しているだけだった。
だが、代わりに彼女の巨大な体の陰から、ひょっこりと一人の小柄な少女が顔を出して答えた。
「ふーん、良いわよ。言葉通り、敵意はなさそうだし……何だか、あなたから面白い気配がするしね」
現れたのは、『万緑のクロリス』。
若草のように瑞々しい緑の肌を持ち、頭頂部から可愛らしい新芽を生やしている無邪気な魔人だ。彼女が交渉の窓口に応じてくれたらしい。
クロリスがそう宣言した瞬間、森のあちこちから俺に向けられていた無数の殺気と、他の「樹木の魔人」たちからの苛烈な攻撃が、嘘のようにピタリとやんだ。
森は再び、静寂と穏やかな木漏れ日に包まれる。
俺は広げていた両手をゆっくりと下ろし、警戒を解いて、とりあえず「ふぅ」と安堵の一息をついたのだった。




