第305話 研究の日々
空を見上げると、そこには薄暗い紫色の雲が、陽光を完全に遮断して重苦しく渦を巻いていた。
俺は今、広大な魔界の辺境にある「沈黙の図書館」へと足を運んでいた。
ここは、俺の配下であるアシュラフの古くからの知り合いであり、『時の魔人』として恐れられるアルカディウスが静かに暮らす隠遁の地だ。
乾いた風が吹き抜けるたび、足元に広がる黒に近い赤色の砂が、サラサラと骨を擦り合わせるような不気味な音を立てて流れていく。
血を吸って黒ずんだかのようなその砂漠の只中に、巨大な石造りの建物がポツンと一つ、孤独にそびえ立っていた。
何千年もの容赦ない風雨と魔界の濃密な瘴気に晒されたように、外壁は激しく風化し、あちこちが削れている。
しかし、どれほど外観が朽ちようとも、不思議と建物自体が崩れた様子は一切ない。強力な魔術によって、悠久の時をその場に固定されているかのようだった。
俺はドアのない、ぽっかりと空いた入口の外から、中に向かって声をかけて建物の中に入る。
「アルカディウス、入るぞ」
静寂を破る自分の声が、冷たい石壁に反響して奥へと吸い込まれていく。
一階の奥で静かに本を読んでいるアルカディウスの姿を認めて短く挨拶をしてから、俺は古びた木の階段を軋ませて二階へと上がり、目当ての本を探す。
埃と古い羊皮紙が混ざり合った、図書館特有の乾いた匂いが鼻腔をくすぐる。
この沈黙の図書館には、アルカディウスの専門である時間に関する魔法以外にも、多種多様な魔術に関する貴重な専門書が所狭しと並んでいるのだ。
俺はその迷宮のような本棚の中から、背表紙の文字を一つ一つ目で追い、「姿を変える魔法」に関する分厚い魔導書を選び出すと、近くの閲覧机に腰を下ろして読書を開始した。
***
パラパラと黄ばんだページをめくりながら、俺は深い思考の海へと潜っていく。
『姿を変える魔法』――変身魔法。
通常、人間の魔術師には全く縁のない異端の魔法だ。しかし、獣人族はこれを本能的に使いこなし、己の姿を強靭な獣へと変えて戦っている。
実は、俺自身も意図せずして、この系統の魔法を独学で会得し、日常的に使っていた。
「変身の指輪」だ。
それは、相手の視覚や認識に直接干渉し、自分の正体を偽り隠すための魔法。
俺はこれまで指輪という魔道具の補助を用いてそれを行使していたが、魔力構成の根源を辿れば、間違いなくこの変身魔法の系統に属する魔術だった。
もちろん、「相手の認識に干渉して幻を見せる」ことと、「自分の肉体を別の物質や生物へと実際に変える」ことの間には、天と地ほどの大きな隔たりがある。
だが、基礎となる術式や魔力の流し方は、同一系統の魔法である以上、必ず共通項があるはずだ。
魔法というのは、使い方と想像力次第で何でもできる万能の力のように思える。
だが、それを行使する「人の認識」には必ず限界があり、そのため実際に出来る事も自ずと限られてしまうのだ。
例えば、ライオンの獣人が変化できるのは、彼らが本能レベルで理解している「獅子の姿」だけだ。鳥や魚など、それ以外の動物には決して変化できない。己の認識外のものには成れない、それが変身魔法の絶対的な法則だ。
そして今、俺が変化しようとしているのは、ライオンのような生物ですらない。
大自然の猛威そのものである、「雷」だ。
質量を持たないエネルギー体への変身。その難易度は、控えめに言ってもとんでもなく高い。狂気の沙汰と言ってもいいだろう。
人間が長い歴史の中で蓄積してきた魔術の知識には、到底存在しない未知の分野の魔法。
だからこそ、俺はここで魔界の先人たちの基礎知識を徹底的に勉強し、理論を固めてから、人間界の屋敷に帰って実践する必要があった。
***
分厚い魔導書と格闘し、脳髄が焼き切れるような集中を終え、俺が人間界の屋敷に帰ってくると、外はちょうど夕刻に差し掛かっていた。
冬期休暇が明け、学生として王立学園に通っている俺は、放課後――帰宅した直後に自室から魔界へと転移していたのだ。
沈黙の図書館で、魔導書を読み解きながら数時間はがっつりと勉強していたはずだ。だが、窓から見える王都の空は赤く染まりつつあるものの、まだ日は完全に沈んでいない。
無理もない。
魔界の中でも、あの場所は『時の魔人』の影響か、時の流れが極端に遅い特別な場所なのだ。
そのため、向こうで数時間の滞在をしただけでも、こちらの世界に戻ってくると、ひどい時差ボケのような、感覚に重い異変をきたす。
頭の奥がズキズキと痛み、自分の肉体と世界の時間の歯車がズレているような不快な眩暈に襲われるのだ。
こめかみを揉みほぐしながら、屋敷に帰還した俺は、料理人が用意してくれた夕食を胃に流し込み、熱い風呂に浸かって強張った筋肉と神経を解した。
そして自室の机に向かい、今日、沈黙の図書館で学習してきた魔術の要点をノートにびっしりとまとめてから、疲労困憊の体をベッドに横たえて早めに就寝した。
その日から、俺の過酷な二重生活が始まった。
学校の授業を終えて帰宅するや否や、休む間もなく魔界へと転移し、沈黙の図書館に籠もって未知の知識を得る日々を過ごす。
どれほど理論を詰め込もうと、生身の人間がいきなり雷へと姿を変えることなど絶対にできない。
そのためには、前段階として、まずは「魔法で雷という現象を正確に作り出し」、変身する対象が物理的・魔術的にどのような存在であるかを完全に把握するところから始める必要があった。
しかし、雷が発生する詳細なメカニズムなど、俺の前世の記憶の中にある知識には存在しない。大雑把に「雲の中で静電気が起きて落ちる」程度には知っているが、魔法を構築するための精密な術式に落とし込めるほど詳しくはないのだ。
だからこそ、俺はそれすらも沈黙の図書館の膨大な蔵書から、気象学や精霊工学の本を引っ張り出して学んできた。
***
古い書物から得た、雷の発生メカニズム。
それは以下の通りだった。
・まず、太陽の熱によって地表の水分が蒸発し、湿った空気が上昇気流に乗って上空へと運ばれ、巨大な雲が形成される。
・極寒の上昇した雲の中で、水蒸気は無数の氷の粒へと形成される。
・その氷の粒は、激しい上昇気流によってさらに上空へと持ち上げられ、水分を吸収しながらさらに大きく成長していく。
・そして、大きくなった無数の氷の粒同士が暴風の中で激しく衝突し、強烈な摩擦によって静電気が発生する。雲の中に蓄積された電気が一定の限界量を超えると、大地や他の雲へ向かって一気に放電が発生する。
この大規模な放電現象こそが雷となり、目も眩むような光と、空を裂く轟音を伴って顕現するのだ。
俺はノートに書き写したそのプロセスを見つめながら、深く息を吐き出した。
(……危なかった。前世の何となくの曖昧な知識だけなら、火や水の魔石を使って、雷の属性を構築することを考えただろう。だが、雲の中での『氷の衝突』が静電気発生のカギだというなら、「氷の魔石」だけでいけるな)
間違ったアプローチで魔法を暴走させれば、命に関わる大事故に繋がっていたかもしれない。正しい知識は、力そのものだ。
俺は立ち上がり、厳重に保管してある中から素材を取り出した。
ドワーフ領から取り寄せてあった、透き通るように美しい最高品質の『氷の魔石』。部屋の空気が一気に冷え込むほどの、鋭い冷気を放っている。
そしてもう一つ。
以前、【砂岩の巨像】デザート・ゴーレムとの死闘を制して倒したときに手に入れていた、ずっしりと重い『土属性の魔石』を用意した。
冷気と土の匂いを放つ二つの魔石を机の上に並べ、俺は静かに魔力を練り上げ始める。
不可能を可能にするための、生物を超越した変身魔法。
その果てしなく困難な術式構築。
その第一段階を始める用意が整った。




