第303話 負け戦の後
風を切る音だけが、やけに遠く聞こえた。
俺は今、分厚い雲に覆われた魔界の空から、重力に引かれるまま真っ逆さまに落下している。
事の発端は――
魔王候補たちの戦力を少しでも削ろうと行動を開始したことだった。
まずは敵の拠点近くに、空間魔法の起点となる転移ポイントを構築しようと単独で移動していたのだ。
だが、その途中。
敵の縄張り近くに足を踏み入れた瞬間に、ターゲットとして定めていた「雷の魔人」に強襲された。
雷轟のヴォルテックス。
その名の通り、雷を操る魔人……いや、違う。
あいつは魔法で雷を操るという次元ではない。雷という荒れ狂う自然現象そのものが擬人化したような、理不尽なバケモノだった。
光速の不意打ちにより、俺の胸は紙細工のようにあっさりと貫かれた。
あの攻撃は、ただ物理的な速度が異常なだけではない。
雷の性質が魂の奥まで浸透したかのように、致死量の過電流が脳を焼き、全身が激しく感電している。
胸に開いた空洞の縁は、数万ボルトの高熱によってドロリと炭化し、傷口からは焼けた肉と防具の入り混じった不快な煙が上がっていた。
中枢神経は完全に焼き切れてしびれ、震えることさえ許されない。
指先一つ、瞬き一つ、俺の意思ではもう制御できなかった。
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間違いなく、即死級の致命的なダメージだった。
普通なら、このまま地面に激突して肉片に変わるのを待つだけだ。
だが、落下していく意識の淵で、俺の体に刻み込まれた『身代わり術式』がオートで作動した。
はるか遠く、人間界にある俺の屋敷。
その中庭で平和に草を食んでいた使い魔のゴブリンに、俺の負った「死」を強引に肩代わりさせる禁忌のチート術式だ。
魔力の淡い光が全身を包み、貫かれた胸の肉が、内側から盛り上がるように瞬時に再生する。
心臓が再び脈打ち、全身の血流が熱く蘇る。
俺は万全の状態で回復を果たした。
しかし、安堵する暇など一秒……いや、コンマ数秒たりとも与えられなかった。
体勢を立て直そうと魔力を練り上げるよりも早く、頭上の空で「ぴかっ!」と目が潰れるほどの強烈な閃光が爆ぜた。
次の瞬間。
ドッ! ガッ! ドゴッ!
鼓膜を直接引き裂くような落雷の轟音と共に、光速で接近してきたヴォルテックスが、空中で容赦のない連続攻撃を加えてくる。
雷の魔人は、超スピードをそのまま質量兵器へと変換し、俺の体に激突するように重い打撃を叩き込む。それから一瞬で通りすぎ、はるか遠方で空気を蹴って反転、背後からもう一度死の衝撃を叩き込んでくる。
文字通り、それを機械的な精度で延々と繰り返すのだ。
軌道そのものは、単純な一直線の突撃に過ぎない。
だが、これを光の速度で行われれば、思考の隙間さえ存在しない。目で追うことなど不可能であり、対処のしようがなかった。
最強のカードであるはずの「時止めの魔法」を使っても、あいつが元から持っているデタラメな基本スペックの前では、回避も防御も全く間に合わない。
相手も魔法の構築には若干時間がかかるし、何より「魔封印」の影響もある。
――とはいえ、こちらが即死状態から回復する時間で事足りる。
一撃もらうたびに、脳を揺らす衝撃と、意識を白く塗りつぶす激しい感電がセットでやってくる。
時間に関する魔法は、間違いなくこの世界でも最高峰の特権的な魔術だ。
だが、それを行使する俺の体は、結局のところ、脆い生身の人間でしかない。
魔力で補強しようとも、肉体が物理法則に従う以上、反応速度や構造的な耐久力には絶対的な限界がある。
その残酷な事実を、今、骨の髄まで痛感させられていた。
**
俺は、雷轟のヴォルテックスが繰り出す一方的な蹂躙に全く対処できず、防戦一方……いや、意思を持つだけの「空飛ぶサンドバッグ」に成り下がっていた。
俺の意識の端では、術式を通じて繋がった使い魔たちの命が『プチッ』と潰れる感覚が連続している。
死を移し替えられたゴブリンの数は、あの一撃を喰らうたびに、遠く離れた屋敷で無残に減っていく。
(くそっ! まったく相手にならんとは……!)
奥歯を噛みしめ、口内に溢れる鉄の味をした血を飲み込む。
今日はあくまで、転移ポイントの設置と、不測の事態における接敵データの収集を目的とした「威力偵察」のつもりだった。
今日中に首を獲る気はなかったとはいえ、まさかここまで手も足も出ず、赤子のように弄ばれるとは予想だにしていなかった。あまりにも自分の力を過信し、見通しが甘すぎた。
これ以上はただの無駄死にだ。
俺は一撃の反撃すら届かせることもできず、ゴブリンの命を削って稼いだわずかな一瞬に賭けた。
渾身の魔力を振り絞り、「時止め」の魔法を使った。
そして、移動先を定めずに、空間魔法『転移』を強引に発動。
敵の攻撃が俺にヒットする寸前――
追いすがろうとする電光を振り切り、人間界へと無様に逃げ戻った。
その、わずか1分にも満たない短い空中戦の間に。
17匹ものゴブリンが、俺の「死」を肩代わりして犠牲になっていた。
***
唐突に視界が切り替わり、冷たい魔界の空気から断絶される。
全身の肉を焼くような雷の轟音は消え去り、代わりに鼻腔をくすぐる甘ったるい香水の匂いと、肌を愛撫するような涼しい風が全身の熱を冷ましていく。
俺が命からがら避難先に選んだのは、砂漠の国・ザハラ王国の王宮にある、悪徳大臣・カリム専用のハレムだった。
あらかじめ空間座標を固定してあるこの豪奢なプールは、今や半分、俺が勝手に使う「専用風呂」と化している。
プールサイドに突如として出現した俺の姿に、水浴びをしていた肌もあらわな女どもが息を呑む。
直後、「きゃー!」「いやー!」「く、くっさ!」という容赦のない悲鳴と罵声が、ドーム状の天井に響き渡った。
……ん?
臭い、だと?
今日は魔界に行って早々にボコボコにされて帰ってきただけで、汚水や泥にまみれるような汚れ仕事は一切していないはずなのだが。
首を傾げ、自分の姿を見下ろして得心した。
高級な仕立てだったはずの服は、雷撃の直撃によって無惨な穴だらけになり、あちこちが炭化してブスブスとくすぶっている。
ヴォルテックスの猛攻によって、布地だけでなく、俺自身の肉が焼かれ続けていたのだ。そこから立ち上る、焦げ付いたタンパク質の異臭がハレムに充満しているらしい。
まあ、確かに、客観的に評価すれば――
臭いと言われても、仕方のない有様だ。
(だが、「くっさ!」とまで絶叫したあの女は、単に口が悪いだけだな)
前も俺がここに転移してきた際、全く同じ台詞を吐いていたのを覚えている。
口癖なのだろう。……あいつは顔こそ整っているが、内面はきっと救いようがないほど性格が悪いに違いない。
死線の淵から戻った直後だというのに、そんなひどく俗っぽくてくだらない思考が頭をよぎる。
すると、大理石の床に腰を抜かしてへたり込んでいた悪徳大臣のカリムが、ガチガチと歯の根が合わない音をさせながら、恐る恐る声をかけてきた。
「こ、これは、ようこそいらっしゃいました。漆黒の魔人殿……」
いつもなら、「もういい加減、来ないでください」と、慇懃無礼な態度で苦言を呈してくるのだが、今日のカリムはいつも以上に顔を土気色に変えて震えている。
必死に引き攣った笑顔を顔面に張り付け、俺の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払っているようだ。
それもそのはずだろう。
目の前に現れた俺は、服をボロボロに焼き尽くされ、全身から焦げた匂いと不気味な煙を立ち上らせている。
さらには、惨敗を喫した直後の、行き場のない怒りと殺気。
それが抑えきれずに、周囲の空間をピリピリと震わせているのだ。
触らぬ神に祟りなし。
保身にかけては天才的な、この強欲な大臣は――
本能的にそう判断したようだった。




