第301話 魔界の情勢
季節は冬。
窓ガラスに薄っすらと霜が降りるほどに冷え込んだ朝だ。
王立学園の冬期休暇の期間も、気付けばもう終わりを迎えようとしている。
ヴァランティーヌ侯爵領での血なまぐさい戦争を強引に終わらせた俺は、久しぶりにアースガルド王国にある自分の屋敷へと戻り、泥のように眠った。
分厚い羽毛布団の中には、ルミアとクーコが潜り込んでいる。
ふたりはいつも通りの愛らしい子猫と子ライオンの姿になり、俺の脇腹にすり寄るようにしてベッドに丸まっていた。
彼女たちの規則正しい寝息と、湯たんぽのような心地よい体温が、戦場で張り詰めていた俺の神経をゆっくりと解きほぐしてくれる。
朝、ゆっくりと身体を起こして備え付けのベルを鳴らすと、すぐに静かな足音を立てて専用メイドのリーリアが部屋に入ってきた。
彼女の淹れてくれた熱い紅茶で喉の渇きを潤し、手際の良いサポートを受けながら着替えを始める。ピンと糊の利いたシャツに袖を通しながら、俺は鏡越しの彼女に告げた。
「今日は魔界に行って、情勢を確認してくる」
***
前世の記憶――『ゲーム世界』の正規の歴史では、今年の春に世界を巻き込む大戦が勃発することになっている。
だが、現実はすでに大きく歪み始めていた。
カストル侯爵による血みどろの内乱が前倒しで起こったり、北の獣人族の蜂起が予定よりずっと早く始まったりと、ゲーム本来のタイムスケジュールとは完全にずれてしまっているのだ。
本来ならこれらが春に同時多発的に起こり、王国はパニックに陥るはずだった。
だが、不幸中の幸いと言うべきか。
タイミングが大きくずれたおかげで、一度に起こると厄介だったものが、各個撃破に近い形で個別に対処することができた。
カストル侯爵の内乱は王国軍を率いたリアム王子が見事に鎮圧し、獣人族の大規模な侵攻は俺が獅子王とタイマンを張ることで、それぞれ終結させている。
人間界の憂いは、ひとまずは払拭されたと言っていい。
だが、人間界の動き以上に俺の心を重くしているのは、魔界の情勢だ。
強大な力を持つ魔王候補がたった一人、人間界へ本格的に侵攻してくるだけで、人類は容易く滅亡の危機に瀕する事態となる。
当然、魔族側の動きだって、ゲームのタイムスケジュール通りに進むとは限らない。得体の知れない爆弾を抱えているようなものだ。
こまめに情勢を見て、もし対処が必要なら、後手に回る前に先手を打って動いた方がいい。
無意識のうちに眉間が寄っていたのだろう。
俺の真剣で険しい顔を見て、ネクタイを締めてくれていたリーリアが、ふっと不安そうな顔をした。その瞳が、すがるように揺れている。
「……ご主人様。お気をつけて」
絞り出すような彼女の声音に、俺は思わず苦笑を漏らした。
「なに、心配はいらない」
言葉だけでなく安心させるために、俺は彼女の華奢な肩を引き寄せ、その体を軽く抱きしめた。
石鹸の清潔な香りが鼻腔をくすぐる。
背中をぽんぽんと叩いてから身体を離し、まだ微睡んでいるクーコとルミアを起こして、温かい朝食を取りに食堂へと向かった。
***
朝食を終え、俺は子猫と子ライオンの姿のままの二人を両腕に抱え、空間魔法を展開した。
一瞬の浮遊感の後、視界が切り替わる。
たどり着いたのは、重苦しい瘴気と圧倒的な魔力が渦巻く魔界……その中心にそびえ立つ、巨大な『魔王城』だ。
しかし、この城を中心に強力な『聖域』が展開されており、結界外の荒れ狂う瘴気とは打って変わって、肺を満たす空気は清浄で冷ややかだった。
静寂に包まれた大理石の廊下を歩いていると、前方の角から、洗練されたメイド服姿のミュリルが足早に歩いてくるのを見つけた。
俺の姿を認めるなり、ミュリルは鋭い目を少しだけ和らげて口を開く。
「そっちの用事……人間界の戦争はもう終わったのか?」
「ああ、なんとか争いを治めてきたところだ。それより、こっちの情勢を聞かせてくれ」
単刀直入に切り出すと、ミュリルの表情が再びサッと引き締まった。
「それなら、これからルシフィール様に報告を上げるから一緒に来い。エレノア殿とリリアーナ殿も同席する」
その声の硬さと、足早な態度。
どうやら魔界で何か大きな動きがあったようだ。
ピリッとした緊張感が肌を刺す。
俺は腕の中のルミアとクーコを伴い、無言のままミュリルの背中を追って奥の会議室へと向かった。
***
重厚な両開きの扉を開け、会議室へと足を踏み入れる。
そこにエレノアとリリアーナもやってきた。
これから魔界の緊迫した情勢の報告会が始まるのだが、意外なほど長閑な光景が広がっていた。
「ふふっ、ルミアちゃんとクーコちゃん、久しぶりですわね。相変わらず可愛らしいこと」
アースガルド王国の姫であるリリアーナの膝の上にクーコが、そして同じくエレノアの膝の上にルミアが陣取り、二人の美女からうっとりとした顔で全身を撫でられているのだ。
緊迫した空気など微塵もない。
その様子にため息をつきつつ、俺も重厚な革張りの椅子に腰を下ろした。そして、ふと思いついて、背後に控えていた俺の専用メイドであるミナに声をかける。
「おいミナ。お前も撫でてやるから、俺の膝の上に乗れ」
「えっ!? あ、あの……ご、ご主人様、流石にこの場では……!」
いきなりの無茶振りに、ミナは顔を真っ赤にして狼狽える。
だが、主の命令には逆らえないのか、少し恥ずかしそうにモジモジとしながらも、結局は大人しく俺の膝の上にちょこんと座った。
柔らかい感触と甘い香りが伝わってくる。
俺がミナの髪を頭をなでていると、エレノアが真面目な顔つきに戻り、こちらに向き直った。
「それで……。獣人族を抑えることはできたのか?」
「ああ、なんとかな。獣人族の頂点である獅子王と一対一で決闘して、きっちり勝ってきた。圧倒的な力を示したことで、当面は大人しくしていてくれるだろうさ。ついでに、人間側が裏で仕掛ける小賢しい工作活動についても、警戒して注意するように言ってきた」
俺の報告を聞き、エレノアは胸を撫で下ろし、心底ほっとしたような顔を見せた。
「――そうか。人間界の無益な争いは収まったか。本当によかった」
「それで、こっちだ。魔界の方は、やはり動きが激しくなったか?」
俺が声のトーンを落として尋ねると、エレノアは重々しく首を縦に振る。
「ああ、そのようだ」
彼女が言い終わるかどうかのタイミングで、ギィッと音を立てて再び扉が開き、この城の主であるルシフィールが会議室に姿を現した。
その瞬間、部屋の空気が一気に重みを増し、肌がビリビリと粟立つような特大の威圧感が場を支配する。俺は慌てて、膝の上で赤くなっていたミナを下ろして姿勢を正した。
ルシフィールが上座に着席するのを待ち、ミュリルが一歩前に出て、透き通るような声で報告を始める。
「――ご報告いたします。魔界の大勢力のうちの二つが、ついに本格的に動き出しました。有力な魔王候補である『オルカス陣営』と、『炎獄の魔人』が激突する模様です。すでにオルカスの手下が先制攻撃を仕掛け、自分たちに有利な地形へと『炎獄の魔人』の誘導を開始しました」
その言葉は、嵐の前の静けさを完全に打ち破るものだった。
血で血を洗う、魔界の果てしない騒乱。その業火は、今まさに激化の時を迎えようとしていた。




