第270話 願いの対価
(悪役貴族オーギュスト・カストル視点 三人称)
カストル侯爵が引き起こした反乱。
その騒動は、今や最悪の佳境を迎えていた。
窓の外では、包囲する王国軍の鬨の声が風に乗って響き、城壁を揺るがす衝撃音が断続的に続いている。
リアム王子率いる王国軍に攻め込まれ、頼みの綱であった諸侯にも見捨てられ、一家は孤立無援の籠城を強いられていたのである。
極限状態に置かれた彼らは、あろうことか城の中で味方同士が相争うという、泥沼の状況にまで陥っていた。
つい先ほどまで、この部屋では裏切り者への粛清という名の殺し合いが行われていたのだ。
床には鮮血が広がり、むせ返るような鉄錆の臭いが充満している。
その混乱を、一瞬にして収めたのは一人の魔人だった。
アシュラフという名のその魔人は、どうやら「転移」の魔法を扱えるらしい。
血だまりの中、一滴の汚れもなく佇む執事服の男。その異質さが、オーギュストの背筋を氷のように冷たい指で撫で上げる。
(……たしかに、そんな能力の持ち主なら、敵の大将を暗殺してこの戦況をひっくり返すこともできるかもしれない)
だが、オーギュストの心には、微塵も喜びが湧き上がらなかった。
目の前に立つ執事服の男が放つ、吐き気を催すような魔力に触れてしまったからだ。触れた魔力は空中に漂っていた微かなものだ。しかし、それだけで胃の腑が強く締め付けられ、奥歯がガチガチと勝手に鳴る。
本能が警鐘を鳴らしていた。
「コイツは関わってはいけない存在だ」と。
(なんだよ、この化け物は……っ! 親父の奴、なんでこんなのと普通に話していられるんだ。馬鹿な奴だと思っていたけれど、あれで結構、大物なのか?)
その疑問への答えは、他ならぬアシュラフ自身の口からもたらされた。
男は優雅に微笑み、まるで今日の天気を語るかのような軽さで言った。
「ふむ。この人間の精神は……ああ、そうでした。私の魔力に接してすぐに崩壊してしまったので、修復しておいたのでしたね。私に対し恐怖を感じないように調整して――。まったく、人間の心は脆くていけませんね。話をスムーズに進めるために少し怯えさせようとすると、すぐに壊れてしまいます」
それを聞いて、謎は解けた。
だが、状況は何一つ解決していない。
むしろ悪化している。
父親の精神はすでに壊れていて、自分は得体の知れない化け物と同じ部屋にいるという事実に変わりはないのだ。
オーギュストの呼吸は浅く、速くなる。
心臓が早鐘を打ち、肋骨を内側から叩き割らんばかりに暴れていた。
彼は一刻も早くこの場から逃げ出したかったが、本能的な恐怖で足がすくみ、動くことさえできない。喉がカラカラに乾き、声を出そうとしてもヒューヒューと空気が漏れるだけだ。
(は、早くどっか行けよ! 怖いんだよ。もうっ! なんだか知らないけど、親父と契約していることは確かなんだろ? だったら言うことを聞いて、さっさと王子を殺しに行ってくれってば!)
祈るようにそう願っていた。
今の彼にできることは、それだけだった。
「何をぶつぶつ言っておるんだ。アシュラフよ? どうもよく聞き取れんな……。ほれ、早く王子を殺しに行かんか!」
精神の恐怖中枢を無理やり弄られたという父親は、信じられないほど呑気な調子で魔人に発破をかける。
その異常なまでの能天気さが、今のオーギュストには狂気そのものに見えた。
「これはこれは、我が主マルセル様。――お忘れになってはいけませんよ。願いを叶えるためには、それ相応の『対価』を頂くことになっております。まずは、それを支払っていただきます」
完璧に執事服を着こなした男が、恭しく頭を下げながら、その実、恐ろしい条件を口にした。
その金色の瞳孔が、爬虫類のように細く収縮する。
(お前、親父のことなんて全く敬ってないだろ……!)
オーギュストは目から涙を流しながら、絶望の中で震え、成り行きを見守るしかない。
「……ん? ああ、そうであったな。何でも好きなものを言うがよい!」
(馬鹿野郎! 安請け合いするな、親父!!)
彼の心の叫びは、父親マルセル・カストルには届かない。
無慈悲な交渉が始まった。
「そうですね。王子の暗殺となりますと――その指にはめている指輪を五つ、頂きましょうか」
「こ、この指輪か? これはかなりの値が張る貴重品でな。……他の物にしてくれんか?」
その言葉に、アシュラフが楽しそうに口角を歪めた。
整った顔立ちが、一瞬にして邪悪なものへと変貌する。
「いえいえ。その指輪でなければいけません。その指輪を――『自分の指を引きちぎって外し』、私に与えてください」
「なっ! 何を言っておる! そんなこと、できるわけがなかろう! それに、指輪が欲しいのであれば普通に外せばよいではないか!」
あまりにも無茶苦茶な要求に対し、父親が声を荒らげて抗議する。
「……どうやら勘違いされているようですね。私が欲しいのは指輪などではなく、指を引きちぎった際に生じる、人間の『負の感情』なのですよ」
「そ、そういうことか。……ふむ。ならば『人間の負の感情』が欲しいのであれば――その辺の領民の指を引きちぎってくれ。それでいいだろう?」
カストル侯爵は、事も無げに最低な代案を提示した。
自分の肉体以外はどうでもいいと言わんばかりの態度に、オーギュストですら引いてしまう。
「それではつまらないではないですか。やはり、この領地の支配者にこそ犠牲を払ってもらわなくては、仕事は請け負えませんね」
アシュラフは失望したように肩をすくめる。
カストル侯爵の視線は、部屋の隅で震えるオーギュストへと流れた。
「で、では……そこの、息子のオーギュストの指ならどうだ!?」
カストル侯爵は、震える息子を指差しながらアシュラフに提案した。
その指先が、オーギュストにとっては死刑宣告の鎌に見えた。
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(悪役領主マルセル・カストル侯爵視点、一人称)
「転移の魔人」アシュラフの悪趣味な要求に困り果てた私は、我ながら実に素晴らしい代案を思いついた。私の指は宝石を飾るための台座として必要だが、息子の指なら、まあ多少減っても困るまい。
「で、では、そこの、息子のオーギュストの指ならどうだ?」
「なるほど、あなたの息子ですか。将来この地を治める嫡男。犠牲を請け負う資格は十分にありますね」
魔人はオーギュストを値踏みするように見つめながら、そう同意した。
ふむ、やはり血統の良さが評価されたか。
(やったぞ! これで交渉成立だ)
「ふ、ふざけるな!! なんで俺が犠牲にならなきゃいけないんだ! 指を千切られるなんて御免だぞ! そんな目に遭うくらいなら、降伏した方がいい! この戦争はもう負けているんだ。大人しく降伏すればいいじゃないか!!」
愚息が大声で喚き散らしている。
顔を真っ赤にし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらの見苦しい醜態だ。
(はぁ~~、やれやれ……)
私は内心で盛大な溜息をつき、バカ息子の致命的な考え違いを正してやることにした。これだから、ゆとり教育を受けた世代は困るのだ。
(王家は諸侯の力を落とすために、わざと教育の質を低下させておるのやもしれんな。早急に滅ぼすべきだ)
「何を言っておるのだ、オーギュストよ。この戦いに負ければ、我らは皆、公開処刑で打ち首となるだろう。指を五本失うのと死ぬのと、どちらがマシかは言わんでもわかるだろうに」
「は? ちょ、待てよ……公開処刑!? なんで殺されるんだよ! そこまで悪いことなんてしてないだろ!? えっ? えっ、マジで!? だってそんな、殺されるようことなんて、俺はしてないし――。領民は殺したことがあるけどさ、あいつらは貴族の所有物じゃん? 悪い内に入らないよな! 学校でいじめはしてたけど、それで死刑はないでしょ!? 戦争は『軍人がしていた』ことで、俺たちは見てただけだ! 関わってません! 俺は関係ないよな! はい論破! 死刑回避――ぐぎゃぁああああああ!!!」
バカ息子が何やら早口で必死に喚いておったが、アシュラフは構わず、オーギュストの手を掴んだ。
ブチブチッ、メリメリッ!
濡れた雑巾を絞るような、あるいは生木をへし折るような湿った音が室内に響く。オーギュストの指を五本、あっという間に引きちぎった。
「ヒッ、ヒギィッ……!! あ、あ、あぁ……」
鮮血が噴き出し、白目を剥いて泡を吹く息子。
その手には、白骨の覗く無残な断面だけが残されていた。
アシュラフはその絶望の叫びを味わうように深呼吸し、満足げにこの場所から姿を消したのである。
よし。
これでリアム王子は死に、敵軍は崩壊するだろう。
私は当初の予定通り、不敬な料理長を殺すために再び厨房を目指した。
まったく、余計な手間を取らせおって。
腹が減って仕方がない。




