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第264話 暗黙の了解

 季節は巡り、夏が間近に迫ってきた。

 日ごとに気温は上昇し、肌をなでる空気は徐々に暑苦しさを増していく。


 窓の外では、蝉の声が日を追うごとに大きくなり、ジリジリと照りつける太陽がアスファルトならぬ石畳を焦がしていた。立ち上る陽炎が、遠くの景色を揺らめかせている。


 そんな折、アースガルド王国の内乱にも大きな転換期が訪れた。


 リアム王子率いる王国軍が、カストル侯爵の常備兵8000と平原にて決戦を敢行。その戦いに、見事な勝利を収めたのだ。


 風の噂によれば、両軍の怒号が、数日間にわたって平原に響き渡ったという。


 だが、敗れたカストル侯爵は依然として降伏を拒んでいる。

 彼は居城に固く閉じこもり、泥沼の籠城戦を開始した。


 対する王国軍は、城を完全に封鎖して兵糧攻めを行いながら、武力による制圧の機会を虎視眈々と狙っている状況だ。


 もっとも、カストル領の住民たちは一様に王国軍を歓迎していた。

 これまで過酷な圧政を強いてきたカストル侯爵の失脚を、誰もが心から望んでいたからだ。


 こうなっては、もはや侯爵に味方する者などどこにもいない。

 たとえ国王やリアム王子に不満を抱く貴族であっても、この絶望的な状況下でカストル侯爵の側に付くことなどあり得なかった。


 こうした情勢を受け、魔法学園の生徒たちもようやく明るさと安心感を取り戻しつつある。


 春先の「白い悪魔」ガダームによる襲撃に始まり、大貴族の反乱によって暗く沈んでいた空気にも、明らかな変化が訪れていた。廊下を行き交う生徒たちの足取りは軽く、笑い声が戻りつつある。


 そんな穏やかな兆しの中で、俺のもとに一人の面会希望者が現れた。

 リリアーナ王女の護衛騎士、セレナ・クリスタルライトだ。


 肩まで届く流麗な銀色の髪は、月明かりを浴びたように輝いている。


 そして、気品に満ちた翡翠色の瞳を持つ女性である。

 その立ち姿は一本の剣のように鋭く、それでいて儚げな美しさを秘めていた。


 俺は学校から帰還すると、彼女を迎えるための準備を整えた。

 いつもならザルツ山脈へ向かうか、あるいはキラー・マシーンの操作訓練に没頭するところだ。


 だが今日は、彼女の来訪にいつでも応じられるよう、書斎で静かに本を読んで過ごすことにした。


 ページをめくる音だけが、静謐な空間に響く。


 やがて、専属メイドのリーリアが、セレナの到着を知らせにやってきた。

 俺は彼女を、丁重に応接室へと迎え入れる。革張りのソファに深く腰掛けた彼女からは、微かにラベンダーの香りが漂っていた。



 ***


 夕暮れ時の応接室。

 室内には俺と彼女の二人きりだ。


 窓から差し込む茜色の光が、長い影を床に落としている。用意されたお茶からは、細い湯気が静かに立ち上り、ベルガモットの香りが鼻孔をくすぐる。


 俺はこれまで、セレナとは手紙を通じてこまめに近況報告を交わしてきた。


 彼女に対してはすでに、「リリアーナ王女は『魔人オルカス』を信奉する集団に攫われたが、それを魔界の姫ルシフィールの勢力が救出した」という筋書きの作り話を伝えてある。


 鋼鉄の魔人が王都を襲撃し、エレノアを連れ去ったあの日。

 セレナは真っ先に俺に接触し、エレノアの安否を尋ねてきた。


 俺ならば、何らかの真実を知っているはずだと考えたのだろう。

 俺は彼女に対し、エレノアは鋼鉄の魔人から無事奪い返し、リリアーナと共に「とある安全な場所」で保護している、とだけ伝えておいた。


 その時の彼女の安堵した表情は、今でも鮮明に覚えている。


 俺は紅茶を一口啜り、彼女としばし最近の政治状況について語り合った。

 陶器が触れ合うカチャリという音が、妙に大きく聞こえる。


 そして、頃合いを見計らって問いかける。


「……本当に、覚悟は決まりましたか? 後悔はありませんね?」


「ええ。……リリアーナ様とエレノア様にお会いできるのであれば、迷いはありません」


 その凛とした答えを聞き、俺はゆっくりと立ち上がった。

 彼女の瞳には、一点の曇りもない決意の光が宿っている。


「では、こちらへ来てください」


 俺は目の前に立つセレナの手を、静かに握る。

 騎士として鍛えられた手だが、その指先は氷のように冷たく、微かに震えていた。


「目を閉じて。俺が良いと言うまで、そのまま開けないでください」


「……はい」


 彼女は素直に目を閉じた。

 長い睫毛が影を落とす。


 俺は転移魔法を発動し、一気に行き先を切り替えた。

 世界が歪み、再構築される感覚。


 跳んだ先は――

 魔界。


 魔王城の謁見の間である。



 ***


「もう、目を開けていいですよ」


「こ、ここは……っ」


 魔王城へ転移した瞬間、周囲の空気感は一変した。

 肌にまとわりつくような湿度と、鼻をつく硫黄の匂い。


 そして何より、空間そのものが軋むような、魔界特有の重厚な魔力が漂っている。


 ここはエレノアとリリアーナが協力して展開した聖域の中心部だが、それでも人間界とは明らかに異質だ。


 セレナが恐る恐る目を開けた、その時だった。


「……その方が、リリアーナ姫の騎士ですか。初めまして。この城の主、ルシフィールです」


 そこには、白と黒の翼を背負う魔界の姫ルシフィールと、メイド服に身を包んだ少女ミュリルが控えていた。


 その圧倒的な存在感に、空気がピリリと張り詰める。

 セレナは一瞬息を呑んだが、すぐに騎士としての礼節を取り戻し、深々と頭を下げて挨拶を交わす。


「我が国の姫君たちをお救いくださったと聞き及んでおります。……ルシフィール様、心より感謝申し上げます」


 その声は震えていたが、感謝の念は本物だった。

 実際に彼女たちを助け出したのは俺だが、表向きはルシフィールが救出したことになっている。


 その方が説明が容易であり、物事がスムーズに運ぶからだ。

 ルシフィールたちにも事前に口裏を合わせてもらっている。


 俺とセレナはその後、ミュリルの案内を受けてエレノアとリリアーナが暮らす私室へと向かった。石造りの冷たい廊下を歩く足音が、コツコツと反響する。



 ***


 主従の感動の再会を見届けた後、しばらくは彼女たち水入らずの時間にさせておいた。部屋には女性しかいない。漏れ聞こえる涙交じりの声と、安堵の笑い声。それだけで十分だった。


 俺はその間、ルシフィールたちへ「深緑のバルゲローグ」と「白翼のペガススーン」を討伐した報告を行った。


「……魔王候補を同時に二人も相手にして、よくぞ勝てましたね」


「まったく。無茶が過ぎるぞ、貴様は……っ」


 ルシフィールとミュリルが、呆れたような、あるいは戦慄したような顔でそう言った。ルシフィールは扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。


 やはり、客観的に見ても相当に危ない橋を渡っていたようだ。

 だが、その激闘の対価として、俺は計り知れないほどの戦闘経験を積むことができた。身体の奥底で、まだ戦いの興奮が燻っているのを感じる。


「……今後は戦うにしても、もう少し慎重に行くさ」


 流石の俺も、あのクラスの相手を二人同時に相手取るような喧嘩を、今後もホイホイと売るつもりはない。数を減らす必要はあるにせよ、魔人同士で潰し合ってくれるのが一番だ。


 数時間後。

 再会を堪能し、泣き腫らした目で少し照れくさそうにするセレナを伴い、俺は屋敷へと帰還した。



 ***


 人間界は、すっかり夜の帳に包まれていた。

 窓の外には満月が浮かび、静寂が支配している。


 屋敷に戻った俺たちは、まず共に食事を摂った。

 会話は少なかったが、沈黙すら心地よい。


 それから別々に風呂を済ませ、寝室で再び落ち合う。

 湯上がりのセレナは、騎士の鎧を脱ぎ捨て、薄いナイトガウン一枚を纏っていた。


 濡れた銀髪が鎖骨にかかり、色香を漂わせている。

 セレナは今日、この屋敷に泊まることになっていた。


 それも、俺と同じ部屋で、だ。


 それが、彼女を魔界へ連れて行き、二人の姫に会わせるための「条件」だった。

 秘中の秘を共有する以上、裏切りを封じるためにも、それ相応の深い繋がりが必要になる。共犯関係という名の楔を打ち込むのだ。


 俺は彼女をそっと抱き寄せ、最終的な確認を求めた。


 彼女の体温と、石鹸の香りが俺を包む。

 心臓の鼓動が、トクントクンと速まっているのが伝わってくる。


「本当に、良いんですね?」


「……はい。姫様の無事を確認するための条件ですから。……これは、仕方のないことなのです」


 彼女は殊勝な態度でそう答えた。

 頬を赤く染め、瞳を潤ませながら。


 その言葉に嘘はないだろう。

 だが同時に、それは俺と契りを交わすための、彼女なりの方便であるようにも感じられた。


 騎士としての矜持と、女としての情動。

 その狭間で揺れる彼女がいじらしい。


 暗黙の了解。

 俺たちは、そんな共犯者のような遊戯プレイを背景に、濃密な夜を楽しんだ。


 月明かりだけが見守る中、二つの影が重なり合った。

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