第263話 群れのボス
アドラステア帝国、ベルンシュタイン伯爵領。
俺は今、その拠点にある町の一角、借り受けた倉庫の中にいる。
倉庫の薄暗い空間には、冷たい埃の匂いと、獣特有の脂臭さが入り混じっていた。
高い天井の隙間から差し込む一筋の光が、空気中を舞う塵を照らし出している。
その静寂の中に、異質な存在が三つ。
直立不動で待機する無機質な護衛のキラー・マシーン三号機。運び込まれたばかりで、まだかすかに地熱を帯びている巨大なラヴァ・タートルの甲羅。
そして――
冷たい石床の上に転がされ、いまだ昏睡状態にある三人の獣人たちだ。
この獣人たちは奴隷であり、グラードの町で冒険者たちを気ままに取り仕切っている男、ガイルが放った刺客だ。
俺は三人の拘束を解き、彼らにかけていた睡眠魔法を解除した。
指先から放たれた魔力が、彼らの脳内へと浸透していく。
「う……うぅ……ッ!?」
オオカミかハイエナかは判別しがたいが、いずれにせよ「イヌ科」の系統を継ぐ獣人たちだ。
彼らは意識を取り戻すと同時に、弾かれたように飛び起きて周囲を警戒し、即座に状況を確認し始めた。喉の奥から低い唸り声が漏れ出し、全身の毛が逆立っているのが見て取れる。野生動物特有の、張り詰めた殺気だ。
「よお。……お前たちの狙いはこの積み荷か? それとも、この俺かな?」
俺が悠然と語りかける。
彼らの瞳孔は限界まで開き、俺を明確な「敵」、あるいは「排除すべきターゲット」と判断したのだろう。 一切の言葉を返さず、無言のまま襲いかかってきた。
足裏が床を蹴る乾いた音が響く。
一人が正面から突き進み、残りの二人が左右の側面に回り込む。
三人の獣人たちは、事前の打ち合わせもなしに見事な連携を見せた。呼吸一つ乱さず、まるで一つの生き物のように統率されている。
武器となる刃物はすでに没収してある。
だが、彼らには生まれ持った鋭い爪と牙がある。
そして何より、人間を遥かに凌駕するほどの身体機能が備わっていた。
ヒュッ、と風を裂く音が耳元を掠める。
俺は彼らの爪先を紙一重で躱し続ける。
しかし、奴らの波状攻撃に止む気配はなく、俺は徐々に背後へと追い詰められていった。壁際の圧迫感が背中に迫る。
(……ふむ。少しばかり、遊んでやるとするか)
俺は敵の爪が肌を裂く直前、転移魔法を発動させた。
視界が一瞬で暗転し、次の瞬間には彼らの後方数メートルの位置へと切り替わる。瞬間移動によって悠々とピンチを脱出し、彼らから大きく距離を取る。
そして、獲物を見失い困惑する彼らの背に向けて――。
「こっちだ」
余裕たっぷりの声をかけてやった。
***
たとえ声をかけずとも、彼らには鋭敏な嗅覚がある。
俺の体臭や魔力の残り香を辿り、突然目の前から消えたとしても――居場所など、すぐに特定できただろう。
だが、あえて教えるような真似をしたのは、精神的に優位に立つための揺さぶりだ。未知の現象に対する恐怖心を煽る、ささやかな悪戯である。
この獣人たちは奴隷である。
主人から命令されている以上、死に物狂いでそれを遂行しなければならない。
案の定、彼らは迷うことなく再び俺へと襲いかかってきた。
爪が床の石畳を削り、火花が散る。
今度も先ほどと同様に、俺は彼らの攻撃をひらひらと避け続け、わざと追い詰められてから転移を使い、少し離れた地点へと脱出する。
これを何度か繰り返すうちに、彼らの表情には明らかな疲労と焦燥が浮かび始めた。荒い息遣いが倉庫内に響き、滴り落ちる汗が床に染みを作る。
それでもなお、彼らは奴隷としての呪縛に従い、命令を実行し続けなければならない。哀れなほどの忠実さだ。
(……そろそろ、この辺りで良いかな)
再び、彼らの完璧な波状攻撃が繰り出される。俺はそれをあえて躱し続け、わざとらしく、段々と追い詰められていくフリをした。
三方向から、空を裂く鋭い爪が迫る。
逃げ場のない死の包囲網。これまでのパターンであれば、ここで転移を使って逃げる場面だ。敵の目にも「また消える」という予測が見て取れる。
だが、今回は「加速魔法」を選択した。
世界がスローモーションへと落ちていく。
舞い散る埃の一粒一粒、迫りくる獣人の瞬き、そして彼らの毛並みの流れまでが静止画のように鮮明になる。
俺は自身の時間軸を急激に加速させ、敵が作り上げた包囲網の隙間を、まるで散歩でもするように容易く脱する。そして、正面にいた獣人の背後へと一瞬で回り込んだ。
そこで加速を一旦解除――
「……こっちだ」
そう囁いてから、再び再加速。
彼らの鼓膜を揺らすより早く、驚愕して振り返る途中の獣人の男へ、重い拳を叩き込んだ。
続いて、呆然と立ち尽くす残りの二人にも、順番にパンチをお見舞いしていく。
すべての打撃を終え、ようやく加速魔法を解除した。
――ドゴォォォォン!!
一瞬の静寂の後、三発分の衝撃音が重なって轟き、倉庫内に響き渡った。
***
俺に殴り飛ばされ、壁際まで吹き飛んだ三人の獣人たち。
「ガハッ……!」
「グゥ……ッ」
苦悶の声が重なる。
だが、彼らはそれでもなお立ち上がり、再び俺へと向かってきた。
肉食獣タイプの獣人は、その狩猟本能ゆえか耐久力と回復力において特に優れている。折れた肋骨が軋む音すら聞こえてきそうだが、彼らの闘志は消えていない。
俺は彼らが物理的に立ち上がれなくなるまで、加速を使い、容赦なく殴り続けた。彼らは奴隷としての命令に従い、機械的に攻撃を仕掛けてくる。
だが、その瞳の奥には隠しようのない「怯え」が混じっていた。
突然姿を消し、理解不能な速度で現れる相手。
その一撃は岩のように重く、鋭い。
防ぐことも、避けることも叶わない。
絶対的な力の差を見せつけられ、彼らの心はとっくにへし折れていた。
恐怖が支配し、動きが鈍くなる。
俺は身動きの取れなくなった彼らの元へ歩み寄り、その胸に刻まれた「奴隷紋」を指で静かになぞる。
特殊能力「魔封印」がオートで発動。
紋章に込められた奴隷契約魔法を問答無用で破棄した。肌に焼き付いた不名誉な刻印が、黒い霧となって霧散していく。
これで、彼らは呪縛から解き放たれ、自由の身となったわけだ。
「さて。これでお前たちは、もうガイルの言うことを聞く必要はなくなった。――これからは、俺に従え」
獣人という種族には、自分より強い相手に服従するという強烈な本能的習性がある。絶対的な力を見せつけられた彼らは、もはや抵抗する意志など持ち合わせていなかった。
彼らは震える身体を小さく丸め、地面に平伏するような姿勢を取る。
土下座のようなそのポーズは、完全なる服従の証だ。
彼らはこの瞬間、俺を新たな「群れのボス」として認めたのだ。
***
こうして三人の獣人を配下におさめたが、俺は彼らを再び奴隷に縛り付けるような真似はしなかった。
手配しておいた食料を渡しておく。
干し肉と水の入った簡素な袋が、彼らの傍らに置かれている。
明日になれば彼らはいなくなっているかもしれない。
表向きは、特に監視も付けてはいない。その気になれば、故郷である獣人の森へと逃げ帰ることも自由だ。
もし逃げたなら、それはそれで構わない。
こちら側にも動かせる手駒がいれば便利かもしれない、という程度の軽い気持ちで行ったことだ。深い策謀があるわけでも、彼らが代えのきかない必須の人材というわけでもない。
ただの気まぐれな「投資」に過ぎない。
もっとも、一応はキラー・マシーン三号機を(こっそりと)監視役に付けておいた。もし彼らが人間社会で無用な悪事を働くようなことがあれば、即座に処分されるだろう。透明な処刑人が、常に彼らの背後に控えているのだから。
俺はその後、転移魔法で持ち帰ったラヴァ・タートルの素材を、エイルたちドワーフのもとへと引き渡した。作業場の炉が赤々と燃え盛り、熱気が肌を焼く。
「これはまた……立派で大きいですね! 流石はゼノス様です。さっそく取りかかり、魔法素材として抽出いたしましょう」
エイルが目を輝かせ、巨大な甲羅を愛おしそうに撫でる。
ラヴァ・タートルの甲羅は、耐火力と耐衝撃において比類なき性能を誇る。
これを用いることで、開発中のキラー・マシーン二号機は、さらなる次元へと強化されることになるだろう。
新たな力の胎動を感じながら、俺は満足げに頷いた。




