第252話 精霊王の浄化
俺は魔界での壮絶な激闘を終え、全身にこびりついた不快な臭いと汗、そして魔物の体液を意識した瞬間、戦闘で薄汚れた身体を今すぐ洗い流したくなった。
皮膚呼吸すら妨げられているような閉塞感。
それと同時に、共に死線を潜り抜けたキラー・マシーン一号機もまた、隅々まで洗車してやりたいと考えた。
駆動音に混じるわずかな異音は、関節に詰まった泥が原因だろう。
その時、真っ先に思いついた場所が、この砂漠の王国にあるハレムだった。
悪徳大臣のカリムとは、もはや友達と呼んでも差し支えない間柄と言えるだろう。なんといっても、彼は悪徳大臣として領民からきっちりと嫌われている。
俺はそんな、清々しいほどに突き抜けた奴に対して、ある種の好感を持っていたのだ。中途半端な善人より、欲望に忠実な悪党の方が気を使わなくて済む。
(……それに何より、以前金貨250枚分の金券を、金貨25万枚と交換してくれた実績もある。意外と気前のいい奴なんだよな)
だからこそ、困った時にはあいつを頼ろうとすぐに決めた。
迷惑をかけることになんの躊躇いもない。
相手は気心の知れた悪徳大臣だ。
さて。
おかげで俺は、こうして存分に身体を清めることができた。
だだっ広いプールに浮かびながら、天井を見上げる。
だが。
今俺たちが浸かっているこの水は、どうやらこの国の住人たちにこれから供与されるはずの貴重な資源らしい。
それを俺たちの汚れで駄目にしてしまうというのは、流石に感心できることではない。水面には油膜のような虹色が浮き、魔界特有の腐敗臭が漂い始めている。
それに、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もある。
俺は汚してしまった水の分を、きっちりと弁償することにした。
借りたものは返す。
それが俺の流儀だ。
***
「よし。じゃあ、まずはこの水を排水用の水路へ流せ。代わりの水は、俺がすぐに出してやるからな」
俺がそう提案すると、カリムはガタガタと震え上がり、脂汗を垂らしながら悲鳴のような声を上げた。
「し、漆黒の魔人殿が出す水、でございますか……!? それは、その……この世のものとは思えぬほどに澱みきった汚水でしょうか? それとも、真っ黒ですべての生命を死滅させてしまう暗黒の液体でしょうか!? そのような物を流されては、さらに困った事態になるのですが……っ!」
何を言っているんだ。
一体、この男は――
そんな物騒なものを、俺がわざわざ出すわけがないだろう。
俺に対する解像度が歪みすぎている。
「……ごちゃごちゃ言ってないで、いいから早く水を流せよ」
俺はそう促すが、カリムはなぜか「この町はワシが守るのだ!」とかなんとか叫んで、頑として動こうとしない。普段は自分の利益しか考えていないくせに、変なところで妙な責任感を発揮しないでほしい。
(……なんなんだよ。一体、こいつは)
話が通じない苛立ちに、俺がいよいよキレそうになった、その時だった。
ふわり、と風もないのに空気が揺らぐ。
俺の守護精霊である「シルフィー」が、おもむろに実体化した。
「待て待て、主よ。これだけの水を排水として捨ててしまうなど、あまりにも勿体ないではないか」
守護精霊シルフィーは、エルフの森にある古代樹に宿っていた精霊が、俺の魔力と融合して生まれた存在だ。
実体化したその姿は、五歳くらいの人型の子供に見える。
長い黄緑色の髪を綺麗に切りそろえた、愛らしい女の子の姿だ。
その体からは、新緑の森のような清涼な香りが漂っている。
シルフィーは、重力などないかのように、静かに水面の上に立った。
波紋ひとつ立てず、水鏡の上に佇むその姿は幻想的ですらある。
「わらわが、直接浄化してやろう」
そう告げると、シルフィーはそっと水面に手で触れた。
指先から淡いグリーンの光が波紋となって広がる。
するとどうだ。
魔界の湿地帯の澱んだ泥によって汚染され、ドブ川のようになっていたプールの水が、見る見るうちに透き通っていく。
泥や不純物が光の粒子となって分解され、大気へと溶けていくのだ。
浄化された水は、宝石のように煌めき、元の状態よりもはるかに清らかに輝いていた。
そればかりか、俺の身体やキラー・マシーン一号機の機体までもが、同時にピカピカに磨き上げられていく。肌にまとわりついていたぬめりが消え、爽快感が全身を包み込んだ。
「おおっ……! こんなことができたのか。もっと早く言ってくれよ」
「お主が気づかなかっただけで、前から普通に使っておったぞ。お主の剣も、わらわが定期的に綺麗にしてやっておったのだ」
そういえば、剣のメンテナンスをエイルに頼みに行くたび、「大変綺麗ですね。剣の整備まで得意とは、流石はゼノス様です!」などと持ち上げられていたが……あれはシルフィーのおかげだったのか。
俺の手柄になっていたようだが、まあいいだろう。
「とにかく、助かった。これでリーリアに『臭い』と思われる心配もしなくて済むな」
「なに。このくらい、わらわにかかればどうということはない。がはははは!」
豪快に笑う幼女の姿に苦笑しつつ、最大の懸念は消えた。
俺たちは意気揚々と転移を発動し、屋敷へと帰還した。
後には、神聖なまでに一瞬で浄化された水を見つめたまま、腰を抜かして呆然と座り込むカリムだけが残された。
***
屋敷の中庭にある機体格納庫へと戻った俺は、まず真っ先に、キラー・マシーン一号機から意識の一部を回収した。
冷たい金属のボディから手を離し、コア魔石に触れる。
離れ離れになっていた魂が、奔流となって自分の中へと融合し、「カチリ」とパズルのピースがハマるような感覚を覚える。
「……ふう。ようやく落ち着いたな」
それから俺は、油と鉄の匂いが立ち込める鍛冶場にいた五人のドワーフ少女たちを呼び寄せ、キラー・マシーン一号機の損傷具合を確認してもらった。
「どうだ。……治りそうか?」
リーダー格のエイルが、真剣な眼差しで装甲の凹みを撫でる。
「……一号機をここまで損傷させるとは。魔王候補というのは、とんでもない化け物なのですね。……ですが、幸いにも基幹部分に致命的な損傷は見当たりません。修理は十分に可能かと思われます」
流石はエイルだ。
どんな無茶な壊し方をしても、必ず直してくれるという安心感がある。
実に頼もしい。
俺は彼女の仕事ぶりに満足し、その額に軽くキスをしてから、屋敷の中へと引き上げた。背後で「きゃっ」という可愛らしい悲鳴と、他のドワーフたちの冷やかしの声が聞こえた気がしたが、俺は心地よい疲労感と共に自室へと向かった。
***
翌日。
学校へ登校してみると、軍への出兵で抜けた生徒も多く、校内はいつもより閑散としていた。
廊下に響く足音もまばらで、教室の扉を開けても、そこには虫食いのように空席が目立つ。授業が始まっても、教室内には席がまばらに空いている状態だ。
何となく寂しいような、それでいてどこか非日常が入り混じったような、そんな不思議な高揚感を覚えた。
嵐の前の静けさにも似た、独特の緊張感が漂っている。
聞けば、多くの生徒は王国側で参戦したが、中にはカストル侯爵側として戦いに身を投じた者もいるらしい。
その大半は、闇属性の魔力の持ち主たちだ。
もともと争いや対立が発生するようにゲームで設定されている以上、それもやむを得ない流れなのかもしれない。
机の空いたスペースを見つめながら、かつてのクラスメイトたちが今頃剣を握っている姿を想像する。
生徒たちが休み時間に交わす話題も、今や戦争の行方が大半を占めていた。
王都を出発した討伐軍は、これから五日間かけて、100キロ先に位置するカストル侯爵領へと攻め入ることになる。重装備に身を包んだ近衛騎士団の疲労を考慮し、一日の移動距離は15~20kmを予定しているとのことだった。
俺はこれから、その奮闘を安全地帯から見守ることになるわけだ。
一方、勝ち目の薄いカストル侯爵側は、起死回生の策としてある噂を流しているらしい。「我らの領地に王国軍が足を踏み入れれば、『鋼鉄の魔人ガダーム』が降臨し、王国軍を粉砕するだろう」という内容のデマだ。
正体不明の怪物を守り神に仕立て上げ、流言飛語をばら撒くことで、敵側に心理的な圧迫を加えようという狙いなのだろう。
その噂はすでに王都にまで届いており、住民たちに漠然とした不安を植え付けていた。
なかなか、いい作戦だとは思う。
敵の士気を挫くには、未知の恐怖が一番だ。
けれど――。
(……そんなことは、絶対に起こらないんだけどな)
窓の外、遠く広がる青空を見上げながら、俺は心の中で苦笑する。
なんといっても、搭乗者である俺自身に介入する気など更々ないのだ。
本人が出る気がないのに、どうやって降臨するというのか。
そんな奇跡が起こるはずなど、万に一つもあり得ないのである。




