第245話 深緑のバルゲローグ
屋敷の書斎。
窓の外はすでに茜色から群青へと沈みつつある。
時刻は、夕刻だ。
部屋の隅に置かれた魔導ランプが、頼りなげに揺らめく灯りを落としている。
静寂に包まれたその空間で、俺は「転移の魔人」アシュラフを呼び出し、魔界の実力者に関する情報を求めた。
かつて俺がゲームで得た知識によれば、魔界の次期王者は魔人オルカスである。
奴は配下の魔人や無数の魔物を率いて、人間界を支配しようと攻め込んでくる存在だ。
しかし、その前段階として、オルカスは同格の魔人たちと戦わなければならない。
魔界という弱肉強食の世界の中で、魔人同士で潰し合い、勝ち残った末に、最強の魔王としてこの人間界へと現れるのだ。
オルカスはゲームに登場したキャラクターだ。
だからこそ、俺はある程度まで奴の性質を推し量ることができる。
攻撃パターン、思考ロジック、弱点属性。十分にレベルを上げたリアム王子であれば、打倒することも可能な相手だ。
だが、魔界の姫ルシフィールや、その護衛メイドであるミュリルから得た情報を総合すると、オルカスに引けを取らない実力を持つ魔人は他にも多いという。
戦闘における相性もあるため単純な格付けは難しいが、純粋な魔力量だけで比較すれば、かなり近い者が複数存在しているらしい。
(……ゲームの真のラスボスであるオルカスに匹敵する魔人が、魔界にはまだゴロゴロしているわけだ)
革張りの椅子の背もたれに体重を預け、俺は指先で机をコツコツと叩く。
以前、そいつらが結成した「魔人連合」は、エレノアとリリアーナが協力して張った聖域を目の当たりにして解散した。
だが、彼らが今後どう動くのかについては全く予測がつかない。
勝手に魔人同士で潰し合ってくれればいいのだが、確実にそうなる保証もないのだ。
もし奴らが手を組み、一斉にこの世界になだれ込んできたら――
人間の世界は終わる。
そこで俺は、魔界の実力者を個別に削っていこうと考えた。
「オルカス」クラスの実力者が多数ひしめいているという現状を、このまま放置しておくわけにはいかないだろう。
憂いは、芽のうちに摘むに限る。
***
「一番弱そうな者、でございますか。――なるほど、流石はゼノス様」
空間の歪みから現れたアシュラフは、どこか恍惚とした表情で俺を称賛した。
何が「なるほど」なのか、何が「流石」なのかは俺には分からない。
おそらく「弱者を狙うなどという卑劣な策を、一片の躊躇いもなく採用されるとは、まさに悪のカリスマ」とでも言いたいのだろう。こいつのおべっかはいつもの事なので、適当に聞き流しておくことにした。
「ああ。そいつの住処の近くに、見つからないように行きたいんだ。先に行って目印になってくれ」
「かしこまりました」
執事服を完璧に着こなした美青年は、恭しくお辞儀をした。
そして、ぬるりと空間を溶かすような転移魔法を使い、魔界へと消えていった。
俺もその後に続き、自身の魔力を空間座標に同調させ、転移で魔界へと移動する。
***
視界が一瞬反転し、次の瞬間には強烈な不快感が全身を襲った。
一年中、陽が射すことのない厚い雲に覆われた、薄暗い魔界。
転移した先は、見渡す限りの広大な湿地帯だった。
靴底がジュブリと不快な音を立てて泥に沈む。
鼻をつくのは、腐った植物と硫黄が混ざり合ったような、強烈な腐臭だ。
肌にまとわりつくような湿気は、まるで濡れた雑巾で顔を覆われているかのような息苦しさを感じさせる。
この場所を根城にしているのは、「蛙の魔人」こと深緑のバルゲローグだ。
アシュラフの情報によれば、そいつの特徴は以下の通りである。
全長は一メートル。
カエルを擬人化したような姿。
巨大なカエルの魔物を多数従えている。
「……魔王候補に名乗りを上げるからには、相当強いんだろうな?」
俺は鼻をつまみたくなるのを堪えながら、傍らに立つアシュラフに尋ねた。
「それは勿論でございます。ただ、私の見たところ……一対一の個体戦闘においては、真っ先に魔王継承戦から脱落するかと思われます」
戦いには相性があるため絶対とは言えないが、こいつの見立てならば間違いはないだろう。アシュラフの目は、対象の魔力や特質を見抜くことに長けている。
(……弱い奴同士で組んで、強敵と戦うという手もありそうだがな)
むしろ、弱者ほど徒党を組む傾向がある。
もしそうなら、早めに潰しておく判断は正解だ。
俺は周囲の湿地を見渡す。泥の中からボコボコと湧き上がる泡が、ここに潜む魔物たちの呼吸のように見えた。
「そうか。ご苦労だったな。もう帰ってもいいぞ。俺も屋敷に帰還する」
「……戦わないのでございますか?」
珍しく、アシュラフが聞き返してきた。
その表情には「ここまで来て、獲物を前にして帰るのですか?」という純粋な疑問が浮かんでいる。
「ああ。今日の目的は転移ポイントの構築だ。これでいつでも挑戦できるようになった。……それに、別に急ぎの用でもないし、腹も減っているんだ」
この状態で戦う気分にはなれないし、夕食の時間が近い。
俺がそう告げると、アシュラフは一瞬きょとんとした後、「さようでございますか」と、再び恭しくお辞儀をした。
そして、俺の真意を見極めようとするかのように、じっと見つめてきた。
その瞳の奥には、「常人には理解できぬ深遠な理由があるに違いない」という過剰な深読みの色が見て取れる。
「なるほど。そういうことでございますか。流石はゼノス様」
また何か、勘違いをしているようだ。
俺はなんだか居心地が悪くなり、そのまま転移で書斎へと戻った。
(あいつは俺のことを買いかぶっているが、深い考えなんてものは、マジでないんだ)
ただ腹が減った。
それだけだ。
そもそも、今日の目的は転移ポイントの構築だけで、戦う準備もしてきていない。
無駄に期待されるのも、なかなか重荷である。
***
屋敷に戻ると、空気の清潔さに思わず安堵の息が漏れた。
ちょうど、食事の用意ができたようだ。
俺は迎えに来たリーリアと共に食堂へと向かった。 テーブルには湯気を立てるローストビーフや、色とりどりの野菜料理など、豪華な食事が並んでいる。
魔界のあの腐臭とは雲泥の差だ。
俺はそれらを、じっくりと味わいながら食べた。
肉汁の旨味が舌の上で広がり、空腹が満たされていく。
(……次の休みにでも、魔人狩りに行くか)
優雅にワイングラスを傾け、今後の予定を考えながら料理を平らげる。
食事の後は、風呂の時間だ。
広い浴槽に満たされた湯気の中で、身体を芯から温めてリフレッシュする。
地下室で匿っている、アザレア公爵家のヴィオレッタも呼んで一緒に入った。
湯に濡れた彼女の肌は白磁のように滑らかで、上気した頬が桃色に染まっている。
彼女は秘匿すべき人物ではあるが、リリアーナと比べればその重要度は低い。
エレノアからも了承を得ているので、万一王家にバレたとしても、何かしらの言い訳は立つはずだ。
「鋼鉄の魔人ガダームから、エレノアと共に救出し、そのまま匿っていた」と言えばいい。そんな案件、たとえ王家といえども大っぴらには触れたくないはずだ。
最終的には、うやむやにせざるを得ないだろう。
バレれば面倒なので隠しはするが、細心の注意を払ってまで隠し通すほどのことでもない。
今の俺の意識は、人間界の争いではなく、すでに魔界の覇権争いへと向いている。この程度の小事には、もはや頓着しなくなっていた。
(……数日以内に、リアム王子は軍をまとめて、カストル侯爵の討伐に出発か――)
湯船の中で、俺はヴィオレッタの豊満な身体を弄びながら、こちらの戦況についても思いを馳せ始めた。
指先に伝わる彼女の体温と心臓の鼓動。
だが、俺の思考は冷徹に盤面を見下ろしていた。




