第236話 流石はゼノス様
(魔人オルカス視点)
「おい、あれはどういうことだ……?」
魔人オルカスは苛立ちを隠そうともせず、低く唸るような声で問いかけた。
どろりと濁った魔界の闇を切り裂くように、目の前の魔王城は眩いばかりの純白の輝きに包まれている。その神聖な光は、闇に属する魔人たちの肌をチリチリと焼き、不快なオゾンのような匂いを撒き散らしていた。
「……見ての通りでしょう。神聖結界魔法――『聖域』です」
傍らに控える「転移の魔人」アシュラフが、事も無げに冷静な声で答える。
その平然とした態度が、かえってオルカスの神経を逆なでした。
背後には、オルカスに付き従ってきた魔界の実力者たちが控えていたが、彼らの視線には、計画の破綻を責めるような色が濃く滲んでいる。
彼らの足元で蠢く影が、不安を体現するように細かく震えていた。
「そんなことは分かっている! 俺が聞いているのは、なぜ魔王城を中心に『あんなもの』が展開されているのか、ということだ。――貴様、この俺を諮ったのか!?」
「まさか。私にとっても想定外の事態ですよ。我々がルシフィールを捕らえようと動き出す、まさにこの絶妙なタイミングで結界が張られるとは」
アシュラフの言葉に嘘はなかった。
彼の当初の計画では、ここで孤立無援のルシフィールを捕獲し、魔界の実力者たちで醜い争奪戦を行わせるはずだった。
そして、勝ち残った者に「姫」を賞品として与える――。
計画を実行に移すため、アシュラフは一つの動画をオルカスに提供した。
『魔界の姫とゼノス・グリムロックがベッドの上で睦み合うシーン』を隠し撮りした、あまりに扇情的な映像――。
オルカスはその動画をネタに、「人間ごときに尻を振る姫を放置はできまい。実力者同士の争いは後だ。まずはあの女を教育してやるのが先だろう?」と説き伏せ、一癖も二癖もある魔人たちを一時的に団結させたのである。
***
オルカスは魔界の実力者の中で一人だけ、とある重要な情報を握っていた。
魔界の姫ルシフィールは、「消滅魔法」という極めて高度かつ恐ろしい魔法を操る。どれほどの強者であっても、その光に直撃すれば問答無用で因果ごと存在を消し去られる禁忌の術だ。
魔界の実力者をなぎ倒して魔王城への挑戦権を得たとしても、最後に姫の一撃であっさりと葬られる危険があった。
ゆえに、オルカスにとっては姫の魔力を消耗させるための「肉の壁」……すなわち、質の良い捨て駒が大量に必要だったのだ。
同格のライバルたちをどう説得し、捨て駒として先に突っ込ませるか。
そう悩んでいた矢先に現れたのがアシュラフだった。
彼は例の動画を差し出し、慇懃な態度で協力を持ちかけた。
「私を配下にしてください。あなたを魔界の王にしてみせましょう」
そう言って。
***
「……チッ。こうなってしまえば、迂闊には手が出せんぞ」
「我らの接近を読み切り、このタイミングでこれほどの手を打ってくるとはな」 「このまま戦えば、こちらが一方的に不利になる」
「くそっ。姫を手に入れて、好き勝手できると思っていたのに」
「おい、どうするんだオルカス! このまま強行突破するつもりか?」
魔界の実力者たちの戦意は、急速に萎え始めていた。
彼らは姫が扱う「消滅魔法」の存在を知らない。
だからこそ、自分たちが単なる捨て駒として利用されている危険に気づかないまま、オルカスに付き従ってきたのだ。
だが、眼前の「聖域」は、そんな彼らの野心を冷やすには十分すぎる威容だった。
「あの結界の中では、本来の力など半分も振るえん。だが、天使の血を引くルシフィールはおそらく例外だ。こちらは力を半減させられるが、向こうはその限りではない。むしろ強化されることもありうるぞ」
「となると、誰かが犠牲になって敵を疲弊させる必要があるな……」
「……おい。お前、さっきまで勢いが良かっただろ。先に行けよ」
「冗談じゃない。捨て駒にされるのは御免だ!」
魔人たちは完全にやる気を失い、互いを牽制し合う醜い仲間割れを始めた。
「俺は抜けさせてもらう。わざわざ光に焼かれに行くなんて御免だ。後は勝手にやってくれ」
一人、また一人と、影に紛れて離脱の波が広がる。
やがて、その場に残ったのは、喉の渇きを覚えながら立ち尽くす魔人オルカスとアシュラフ、そしてオルカスが古くから従えている、震えを隠せない手下のみとなった。
ここに集まっていたのは、魔界でも屈指の実力者ばかりだ。
誰かの下について動くことも、利用されることも良しとしない。
彼らはそれぞれ己の拠点へと戻っていった。
オルカスの計画は破綻した。――しばらくすれば、本来行われるはずだった「蟲毒」のような、互いの喉元を食い破り合う凄惨な戦いが、魔界全土を舞台に繰り広げられることになるだろう。
「……おい、アシュラフ。城の中がどうなっているか見てこい。『隠密の魔人』である貴様なら、ルシフィールに気づかれずに潜入できるだろう。何が起きているか突き止めろ」
オルカスが絞り出すように命じた。
だが、その命令に対し、アシュラフは静かに首を横に振った。
「この私の隠密技術をもってしても、城の中に入るまで近づけば、ゼノス様に気づかれてしまうでしょう」
「あぁ? ゼノス……? ……ああ、貴様が利用しているという人間の小僧か。そいつが城の中にいるだと? ということは、この結界もそいつが……」
アシュラフは魔法による契約を通じ、ゼノスの位置を「従魔」として正確に把握している。
「ええ、おそらくは――。ルシフィール姫には、単独であのような広域かつ強固な聖域を張る能力は備わっていなかったはず。となると、ゼノス様が結界を使える人間を、あの城へと招き入れたのでしょう」
「なんだと? 人間を? どうやって連れてきた。貴様が呼んだのか!? ……まさか貴様、俺を裏切っているんじゃないだろうな! そもそも、なぜそのゼノスという人間をわざわざ魔界に連れてきている?」
オルカスは、アシュラフの「転移」能力を知らなかった。
そして、ゼノス・グリムロックが、その「転移」を使えることも。
「私が連れてきているわけではありませんよ。ゼノス様はすでに、魔界と人間界を自在に行き来する術を、独自の理論で身に付けておられるのです」
それを聞いたオルカスの部下が、顔を真っ赤にして激昂した。
「人間ごときに、そのような真似ができるはずがあるか! 嘘をつくな、この裏切り者が!!」
怒りに任せて殴りかかるが、その拳は空を切った。
アシュラフは一瞬で姿を消し、数歩離れた場所に音もなく現れる。
「やめておけ。アシュラフは攻撃手段を持たぬ分、隠密と回避に特化している。この俺ですら、奴に一撃を当てることはできん」
オルカスが手下を制した。
拳を握りしめた彼の掌には、鋭い爪が食い込み、鈍い痛みが走る。
アシュラフは己の全能力を開示することなく、あくまでオルカスの配下として振る舞っているのだ。自分は弱いからこそ、湧き点を通じて人間界と魔界を行き来できるのだと嘘をつき――。
だが、彼の言葉のすべてが嘘ではない。
「本当に、今回のことは想定外の事態なのです。まさか、魔王城に攻め入る絶好のタイミングで、これほど鮮やかに出鼻をくじいてくるとは……」
アシュラフは、遠くに見える魔王城をうっとりと見つめながら、どこか愉悦すら含んだ声で呟いた。
「――あのお方は、私の手の内を、一体何手先まで読んでおいでなのか。流石は、ゼノス様だ……」
その言葉に宿る、崇拝に近い狂信。
オルカスは一瞬、自分がとんでもない化け物を配下にしているのではないかという、底知れぬ寒気を覚えずにはいられなかった。
だが、すぐに「こんな弱そうなやつが何を企んでいても問題ないだろう」と思い直し、深く考えることもなくその場を後にした。




