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第234話 捕らわれた先で

 (王女エレノア視点)


 アースガルド王国の第一王女エレノアは、鏡の前で深く息を吐いた。


 幾重にも重ねられたシルクと、肌を締め付ける窮屈なコルセット。

 ウェディングドレスの試着を終え、ようやく自室へと戻る途中だったが、身に纏った豪華な刺繍の重みが、そのまま彼女の心にのしかかっているようだった。


 彼女はこの春、クロウリー公爵家の嫡男であるバルトロメウス・クロウリーとの結婚を控えている。


 政略結婚としての重要性は十分に理解しているつもりだ。

 だが、香水の人工的な甘い香りが漂う試着室で、この縁談に心が躍ることは一度もなかった。


 それでも王女としての責任を果たすべく、彼女は鏡に映る無機質な自分を見つめ、その運命を静かに受け入れていた。


(……そういえば昔は、結婚するなら強くて立派な騎士様が良い、なんて夢を見ていたこともあったな……)


 物語の英雄に憧れた幼き日の淡い記憶。

 そんな青い感傷を思い出し、ふと物思いに耽っていた、その時だ。


 静寂を保つはずの王宮の廊下の向こうから、冷気を切り裂くような、ただならぬ騒ぎが聞こえてきた。


「大変です! 処刑場の広場に、魔物が現れました!!」


 駆け込んできた兵士の、喉を枯らさんばかりの絶叫。

 それは、穏やかな春の日を地獄へと変える、驚天動地の報告だった。



 ***


 この日は、アザレア公爵家の令嬢ヴィオレッタの公開処刑が執り行われる日だ。


 広場には、その最期を好奇心というスパイスで彩ろうとする大勢の民衆が詰めかけている。そんな人口密度の高い場所で魔物が出現したとなれば、現場はとんでもないパニックに陥っているに違いない。


(中央広場は王都の中心地。そこに、魔物が偶然姿を現すなどあり得ないこと……。まさか、アザレア公爵家の召喚術師の仕業だろうか?)


 娘可愛さに、禁忌の手段に訴えたくなる公爵の焦燥も分からなくはない。


 何しろ、ヴィオレッタが起こした問題の依頼はすべて一年前のものであり、それ以降の彼女は、まるで憑き物が落ちたように心を入れ替え、犯罪組織との接触を一切断っていたようなのだ。


 殺人未遂という罪は、謝罪だけで済むほど軽いものではない。


 だが、真に反省し、改心した者までを一方的に処刑するというのは、騎士の道を志す者として決して気分のいいものではなかった。


 しかも、相手は幼い頃からの顔見知りだ。

 ヴィオレッタに困った虚栄心や癖があったのは事実だが、彼女が首を刎ねられる姿など一度も願ったことはなかった。


 弟のリアム王子も、公人としてのけじめを付けるために「処刑」という非情な決断を下したものの、その瞳は深く沈んでいた。


 彼は今日、あえて処刑場から遠く離れた王都郊外を公務で訪問する予定を組み、現場を離れていた。


(……無意識にでも、かつての友が死ぬ場から遠ざかりたかったのだろうな)


 だが、その優しさが仇となった。


 この緊急事態に、王国の最大戦力であるリアムが不在なのだ。

 事態を重く見たエレノアは、すぐさま重苦しいドレスを脱ぎ捨てて実戦用の軽装へと着替えると、自ら広場へと駆け付ける決意を固めた。



 ***


 処刑場には、王国騎士団長サー・ガイウスを筆頭に精鋭たちが揃っている。


 たとえ大型の魔物が数匹程度現れたとしても、彼らならば問題なく対処できるはずだ。その技量について、彼女に不安はなかった。


(けれど、民衆がパニックを起こせば、二次被害はどこまで拡大するか分からない……!)


 彼女が広場へ向かう真の目的は、魔物の討伐そのものではなく、怪我人の救護や、恐怖に駆られる民間人を鎮めて事態を収束させることにあった。


 しかし、いざ数人の供を率いて愛馬に跨り、城門を出ようとしたその時。背筋に冷たい氷を這わせるような、さらなる深刻な続報が彼女に突きつけられた。


「広場に数百の魔物が出現! その直後、複数の地点で大規模な魔法爆発が発生しました! さらに、召喚士の手により『鋼鉄の魔人』ガダームを名乗る者が現れ、ヴィオレッタ嬢を人質に取って『人間界で最も強い者を連れてこい』と要求しております!」


 あまりにも非現実的で、過剰すぎる情報量。

 エレノアの思考はパンク寸前となる。


「魔物が数百体に、爆発……? それに魔人の出現、強者の要求だと……!?」


 事態は想定を遥かに超え、最悪の方向へと加速していた。

 心臓が早鐘を打ち、握った手綱が汗で滑る。


(ともかく、ここで考え込んでいても始まらない。一刻も早く現場へ駆け付けなければ!)


 エレノアは必死の思いで馬に拍車をかけ、王都の石畳を全力で走らせた。



 ***


 広場に到着したエレノアの目に飛び込んできたのは、さらなる信じがたい光景だった。


 石畳を粉砕し、天を衝くようにそびえ立つ全長五メートルに及ぶ、鉄の巨人。

 白を基調としたその無機質なボディーは、春の柔らかな日差しを浴びて、神聖な白銀のように眩い光を放っている。


(……あれが、ガダーム……! まるで未知の文明の遺物のような不気味さだ……)


 彼女は対魔物・魔族用として最強の威力を誇る光魔法「聖域」を展開し、唇を噛んで決死の覚悟で戦いを挑んだ。


 しかし、結果は惨敗であった。

 鉄の肉体には刃が通らず、頼みの魔法は霧散するように悉く無効化され、打つ手は完全に封じられてしまった。


 エレノアは抗う術もなく、無惨にも巨人の巨大な手に捕らえられた。


 逃げられない。

 冷たい鉄の指が身体を締め付け、呼吸すら困難になっていく。


(……このまま、握りつぶされる……!)


 死の冷気が首筋を撫でた、その瞬間。

 抗いようのない猛烈な、そして強制的な睡魔が彼女を襲った。


 ガダームの指先から直接流し込まれた睡眠魔法。

 彼女は抵抗する暇もなく意識を失い、奈落のような深い闇へと落ちていった。



 ***


 次にエレノアが目を開けた時、彼女は驚くほどふかふかのベッドの中にいた。


 窓からは見たこともない紫がかった月光が差し込み、室内は薄暗い。

 肌をなでる空気は冷たく、そして王宮とは決定的に異なる濃密な魔力の匂いが漂っていた。


(……ここは、どこだ? 私はなぜこんなところに……。確か、鋼鉄の魔人ガダームと戦って……それから……)


 混濁する記憶を必死に手繰り寄せながら、重い身体を起こす。


 すると、静寂を破るように、聞き覚えのある懐かしい声が室内に響き渡った。


「……目を覚まされたのですね、エレノアお姉さま!」


 そこにいたのは、行方不明になっていた愛すべき妹、リリアーナだった。


 ゼノス・グリムロックから聞いていた話では、妹は「オルカス」という名の魔人を信奉する過激な一派に捕らわれ、そこから魔界の姫ルシフィールの勢力に救い出されたらしい。その後、どこかに潜伏しているはずだ。


 リリアーナがここにいるということは、ここは彼女たちの潜伏先なのだろうか。


 疑問は尽きなかったが、久しぶりに再会した妹が瞳を潤ませ、涙を流しながら抱き着いてくるのを見て、エレノアは思考を停止させた。

 

 彼女は泣きじゃくる妹を折れそうなほど力強く抱き締め、自身の目からも熱い大粒の涙を零した。


「心配したんだぞ。本当に……。ああ、無事でよかった……!」


 妹の柔らかな体温と、微かに香る花の匂い。

 それが、これが夢ではないことを、エレノアに教えてくれていた。

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