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第220話 勘違いの連鎖

 (悪徳大臣・カリム視点)


 ワシは、かつて味わったことのない根源的な戦慄に叩き落とされていた。

 この世のものとは思えぬ禍々しき「闇」を体現した魔人に頭を床へ押さえつけられ、その暴力的なまでに濃密な魔力に直接触れてしまったのだ。


 肌を焼くような砂漠の熱気も、ハレムに満ちていた香水の芳香も、もはや感じない。ただ、精神が絶対零度の深淵へと叩き落とされ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打つ。


 いつ発狂してもおかしくない、極限の精神状態。


(……こんな、こんな恐ろしい魔人を呼び出し――御して使役するとは。ゼノス・グリムロックめ、何という男だ)


 ワシは、その場におらぬ辺境伯のドラ息子に対し、呪詛に近い激しい怨嗟の念を送り続けた。これほどまでに邪悪な手駒を飼い慣らすとは、あやつこそが本物の魔王ではないのか。


(奴はこの魔人を、完全に支配下に置いているというのか。――先ほど、この魔人はゼノス・グリムロックが、アースガルドとイスファラを『縄張り』にすると宣言した。ならば、それはむしろワシにとって願ってもないことだ。この聖都アル・ジャバルを勢力下に置く気がないのであれば、イスファラは潔く諦めよう。これほどの危険人物が引いた明確な境界線が把握できていれば、こちらとしても配慮のしようがある。とにかく今は……一刻も早く、こいつに帰ってもらわねばならん)


 ワシの喉は、恐怖で小刻みに震えていた。


「わ、わかった。金貨二十五万枚に換金しよう。それで、それで相違ないな? ……頼む、もう許してくれ」


 積み上げた金貨を失うのは血の涙が出るほど惜しい。

 だが、命には代えられぬ。


 命と権力を司る大臣の椅子さえ守り抜いていれば、黄金など後からいくらでも、この国の愚民どもから絞り出せる。


(ここは、我慢だ)


「……? 随分と物分かりが良いじゃないか。まあ、くれるって言うなら貰っておくか。じゃあ早速、金の在り処まで案内してもらおうか」


 その魔人は、不意に魔力のプレッシャーを緩めると、意外そうに、そして不思議そうにそう告げた。



 ***


 ワシは、全裸でびしょ濡れのまま、一生消えることのない屈辱にまみれて四つん這いで王宮を這い進んでいた。


 ペタペタという、濡れた手の平が冷たい廊下を叩く音が虚しく反響する。

 その後ろを、あの魔人が地獄の番人の如く悠然とついて来ている。


 ハレムにいた女どもが逃げた先で騒ぎ立てたせいで、廊下の角からは抜剣した大勢の衛兵が駆けつけていた。本来なら頼もしいはずのその鋼の音が、今は死の宣告にしか聞こえぬ。


 ワシは引き攣った喉を震わせ、裂けんばかりの声で命じた。


「騒ぐな! 剣を引け! この御方に、決して、一指たりとも手出しをしてはならぬぞ!!」


 もし無知な衛兵が攻撃を仕掛けて不興を買えば、この聖都そのものが地図から消されるやもしれぬ。


 それだけの凶行を、呼吸をするように成し遂げかねない、危険極まりない魔人なのだ。街が滅び、ワシが吸い上げるべき富の源泉が枯渇してしまえば、権力者でいる甲斐もない。


 この街は何としても、この化け物の手から守り抜かねばならんのだ。


 ワシは奴に命じられるまま、犬のように四つん這いの無様な姿で廊下を進む。

 途中で出くわす驚愕に目を見開いた使用人や衛兵たちにも、その都度、「騒ぐな」「伏せろ」と厳命を下し続けた。


 やがて、一行は地下深く、三重の防壁に守られた地下金庫へと辿り着いた。

 ワシは門番に命じ、重厚な扉を開けさせる。


 中の魔導照明が点ると、そこには山のように積み上がった金貨が、眩いばかりの残光を放っていた。

 その絶景を目の当たりにすると、やはり腸を千切られるような惜別感が襲う。


 だが、やはり命の方が大切だ。

 ワシは震える声で、魔人に確認を取った。


「約束通り。……この中から、金貨二十五万枚を持っていくがよい」


 この金庫には元々貯蔵されていた金(私財)もあるため、全体では金貨四十万枚ほどはあるだろう。


 その中から、金貨二十五万枚。

 かなりの重量になるし、かさも張る。


(魔人との契約は絶対だ。この中から二十五万枚の金貨が消えることになる……やはり惜しい、いや、欲をかいて命を失うわけには……)


 どうやって持ち運ぶつもりなのかは知らぬが、そこまで面倒を見てやる義理も余裕もない。何しろ正体の知れぬ魔人だ。運搬手段くらい、当然持ち合わせているのだろう。ここから先は、ワシの知る由もない領域だ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 


 (ゼノス視点)


 俺は今、最悪なものを見せつけられている。


 それは――

 目の前で這いずり回る、脂ぎった中年男の尻だ。


 何となく、くすぶり続ける怒りとその場のノリで、ザハラ王国を牛耳るカリム大臣を全裸のまま四つん這いで歩かせるという「罰」を与えたわけだが……。


(……やらなきゃよかったな、こんなこと。精神衛生上よくない。見なけりゃいいだけなんだが――敵から目を離すわけにもいかんしな……)


 せめて服を着る許可くらいは与えるべきだった。

 大臣としての威厳を完全に砕いてやるつもりだったが、俺の眼球もまた、取り返しのつかないダメージを受けている。


(くそっ、失敗した。だが、人は常に失敗をして生きていくものだ。後悔したところで、過去は変わらない。――変わりはしないのに、いつまでも過去の教訓を引きずるのは、失敗を糧にして『次はもっと上手に生きよう』と人は思うからだ。人というのは、そういうふうに失敗を教訓として生きていくしかないのだ。それでもまた、別の失敗を繰り返すのが人間だ。人というのは、実に生き辛い生き物だな)


 そんな、どうでもいい哲学を脳内で展開している間に、金庫へと到着した。

 扉が開くと、そこには暴力的なまでの黄金が山を成していた。


(本当は、換金してもらうのは金貨二百五十枚でもよかったんだけどな。けど、関税であれだけふんだくられたんだ。ちょっと意地悪して、もっと吹っかけてやろうと思って二千五百枚を要求しようとしたんだが……。せっかく俺が、今まさに『大物感』を出して威圧してる最中なんだ。ここでチマチマした数字を出すのも格好悪いと思って、勢いで二十五万枚とか言っちゃったんだよな。そしたら、あっさり受け入れるから逆にビビったぜ。何か罠でも張っているのかと警戒したが……特に怪しい気配はないよな?)


 俺は倉庫内を軽く見渡す。


 伏兵の吐息もなければ、発動直前の魔力の揺らぎもない。

 仕掛けも、罠の類も一切ないようだ。


(……思わぬ臨時収入だ。さすがに桁を増やしすぎたかと思ったが、これだけの金貨をポンと出せるとは、流石は悪徳大臣だ。それにしても、盗賊から奪ったラクダが金貨二十五万枚になるとは……。まるで「わらしべ長者」みたいじゃないか――)


 俺は少しばかり浮き足立ちながらも、それを悟られないよう冷淡な声で「お前にもう用はない。この部屋から出て行け」とカリムに命じた。


 奴は大金を奪われるというのに、なぜか解放された安堵で顔を綻ばせながら頷いた。


「最後に、一つだけ……聞いておきたい。お前の、本当の名は何だ? 知りたくはない……知りたくはないが、正しく把握しておかねば、不意に遭遇して事故が起こるとも限らんからな」


 俺は奴が何を震えながら言っているのか、すぐには理解できなかった。


(ああ、そうか。俺が『ゼノス・グリムロック』の使いだと名乗ったから、『漆黒の魔剣士ゼノス』という名前は偽名だと思ったのか。……しかし、真実を答えにくいな)


 あんまり深く考えて付けた名前ではない。

 エレノアと一緒に闘技場で戦う際、その場の思いつきで適当に付けた名前である。


 今さら説明するのも面倒だ。


 ここは、適当にカッコつけて誤魔化しておこう。


「俺の真の名か。……貴様のような下賤な者が、それを知る必要はない。『漆黒の魔剣士ゼノス』とだけ覚えておけ」


「……わ、わかった。……『漆黒の魔人』だな。しかと覚えておこう。覚えてはおくが、もう二度と、この国には来ないでくれ。頼む……」


 奴は魂を絞り出すようにそう言うと、全裸のまま情けない足取りで部屋から出て行った。「それにしても、自分の名を魔人に与えて、呪術的に制御するとは――」とかなんとか、意味不明なことを呟きながら。



 ***


 部屋の、巨大な防壁のような重い扉が、重低音を響かせて閉じられる。


「――来い、アシュラフ」


 俺は影からアシュラフを呼び出し、この部屋にある『金貨を全部』劇場の地下金庫部屋へと転移で運ぶよう命じた。


 目の前には「たくさんの金貨」。

 ちゃんと数えたわけではないが、だいたい二十五万枚くらいはあるだろう。


 多少数を誤魔化されているかもしれないが、臨時収入だ。

 少しくらいは目を瞑ってやる。


 俺自身も転移は使えるが、これほど広範囲かつ大量の物質を一度に運ぶのは、『魔封印』の影響もあって不可能だ。


 アシュラフが影を広げると、瞬く間にカリムの金庫部屋は空っぽになった。


「換金完了っと」


 もはや、この街に用はない。


 俺もアシュラフの影に追随するように、劇場地下の地下三階にある『特設金庫部屋』へと転移した。


 ここに通じる地下二階の入り口は、すでに土砂で部屋ごと埋めて閉鎖してある。

 転移を使わなければ、おいそれと侵入することはできない。


 かなり広い石造りの部屋の床に、今しがた運び込まれた金貨が、眩い山となって積み上がっている。


 これまで地道に貯金してきた、金貨と銀貨も積んである。


 まさに、絶景。

 前世でも今世でも見たことのない、成金の極みのような光景だ。


 指令を完璧に遂行したアシュラフは、気配を消してすでに退室している。

 俺は一人きりで、その黄金の輝きを静かに楽しんだ。


(……ふぅ。予期せぬ臨時収入はあった。だが……)


 しかし――


 これだけの、一国の王室を傾かせかねないほどの富を手にしても。

 あの関税の役人の顔や、商隊の連中の蔑むような視線を思い出すと、俺の苛立ちはどうしても、胃の腑の底で燻ったまま収まらなかった。


「なんか、まだイラつくんだよなぁ……」

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