第213話 夜の砂丘に潜む影
砂漠の行商部隊は、おおむね順調に旅程を消化していた。
襲撃を受けたのは初日だけで、それ以降は人間よりも、むしろこの過酷な自然環境そのものが唯一にして最大の障害となっていた。
俺は現在、アル・ナジャット族の護衛として、この果てしない砂の海を行く旅に同行している。
『転移』の魔法を使えば、いつでも王都にある自分の屋敷に戻り、溜まった雑事を片付けることも可能だ。
だが、今の俺はあえてこの砂漠の国に身を置き、じりじりと焼けるような熱気と、牙を剥く大自然の呼吸を肌で感じ続けていた。
出発から数えて、十九日が経過。
一行は今、この旅における最大の難所とされる巨大砂丘地帯を横断していた。
日中の殺人的な酷暑を避けるため、移動はもっぱら日没後から明け方にかけての「夜行軍」がメインとなる。
蒼白い月光に照らされた砂漠は、まるで凍りついた銀の海のようだ。
その暗闇の中を、百頭を超えるラクダの長い列が、サリ、サリ、と微かな足音だけを響かせて進んでいく。
俺の定位置は、変わらず部隊の最後尾、しんがりだ。
この辺りは遮るものがない岩砂漠と砂丘の混在地帯で、見晴らしは極めていい。
もし賊が出るならば、まずは遠距離から弓矢で先制し、隊列を乱してくるのが定石だ。
その場合、商隊は即座にラクダを円形に配置して土塁代わりの陣を敷き、俺はその外側で機動力を生かした遊撃部隊として立ち回ることになっている。
(カリムの妨害は最初だけだったか。――俺という戦力を侮りがたい強敵と見なし、交渉に切り替える準備をしているのか、あるいは……)
鞍の揺れに身を任せ、手綱を握る指先に意識を集中させて敵の出方を想定していた、その時だ。
背後から、肌を粟立たせるような、ねっとりとした不快な殺気が漂ってきた。
(……なんだ?)
俺が鋭く意識を向けた直後――
夜の静寂を暴力的に切り裂く、大地を揺るがす轟音が響き渡った。
ドゴォオオオン!!
***
爆圧と共に砂を高く噴き上げ、地中からその禍々しい姿を現したのは、グランド・サンドワーム。
砂漠の地層を水の中のように自在に泳ぎ回り、通り過ぎた後には何も残らないと言われる「生ける災害」――
超巨大な環形動物だ。
全長三十メートルを超える、節くれ立った円筒形の巨体。
その皮膚は、永い年月をかけて砂との摩擦に耐え抜くため、岩石のように硬質化した黄褐色に変色している。
松明の火を反射する粘液が、ヌラリと不気味な光を放つ。
とんでもない化け物の出現に、アル・ナジャット族の行商隊は瞬時にパニックに陥り、怒号と悲鳴が夜の砂漠に木霊した。
彼らは荷を積んだラクダを叩き、我先にとその場から逃げ出した。
(こんな奴に出くわすとは、運が悪い……。だが、奴の待ち伏せの『真上』を通らなかったのは、不幸中の幸いだな)
俺は逃げていく連中の背中を冷静に見送り、一人、怪物の方へとラクダを向けた。
じり、と喉が乾くのを感じながら、専用武器『クロノス・ヴァイス』を抜き放つ。
白銀の刃が月光を吸い込み、冷徹な殺気を放った。
その時、のたうつ巨大な影のさらに後方に、砂煙に紛れた不自然な人影を捉えた。
(……あいつは、魔物使いか。あの術者が、このワームを操っている。だとしたら――)
嫌な予感が脳裏をよぎり、俺は即座に後方の気配をスキャンした。
案の定、遠ざかっていったアル・ナジャット族の悲痛な叫び声が、風に乗って聞こえてきた。
彼らの進行方向にも、逃げ場を塞ぐように巨大な魔物が立ち塞がったのだ。
それも、一匹ではない。
二匹だ。
(つまり、最初からこうして包囲されていたわけか)
**
前方の砂丘に新たに出現したのは、神話から抜け出してきたような二体の怪異だった。
一つは、【砂焔の大蛇】ジャハル・ナーガ。
砂丘の頂にそびえ立ち、体長二十メートルに達するその巨躯には、夜闇の中でも消えない紅蓮の紋様が浮かび上がっている。
蛇が呼吸を漏らすたび、周囲の砂が熱でガラス状に溶け、チリチリと嫌な音を立てていた。
もう一つは、【砂岩の巨像】デザート・ゴーレム。
周辺にある古代遺跡の残骸が、歪な魔力によって無理やり意志を持たされたものだ。高さ五メートルを超える岩の巨人が、一歩足を踏み出すごとに地響きが起き、砂が波打つ。
かつて王都の闘技場で戦った「ケルベロス」には及ばないだろうが、それでも一個師団、あるいは千人の軍勢を相手にできるほどの怪物たちだ。
人間の盗賊団とは、そもそもの次元が違う。
(だが、妙だな……)
これほどの質量を持つ巨体でありながら、姿を現す直前まで、俺の感覚にすらほとんど引っかからなかった。
もし本気で商隊を潰すつもりなら、出現と同時に先制攻撃を仕掛け、一瞬で全滅させられたはずだ。
(荷物を傷つけずに奪うため、あえて姿を晒して威圧したか。抵抗する気力を根こそぎ奪ってから、ゆっくり料理するつもりだな――)
圧倒的な絶望を見せつけて戦意を喪失させ、高価な積み荷を丸ごと無傷で奪い去る。――それが、この舞台を整えた敵の狙いだろう。
前方には熱気を吐く大蛇と岩の巨人。
後方には、今まさに砂を巻き上げているサンドワーム。
文字通り、彼らに逃げ場はない。
俺はひとまず、恐慌状態にある商隊のことは放置し、目の前の巨体を片付けることに決めた。
グランド・サンドワームもまた、俺を明確な「排除対象」として認識したようだ。
数千本の鋭い牙が同心円状にびっしりと並ぶ、暗黒の深淵のような巨大な口。それが上空から、俺をラクダごと押し潰さんと叩きつけられてくる。
***
ドォオオオォオン!!!
凄まじい衝撃と共に砂丘が震え、激しい砂埃が視界を白く染めた。
もしあのワームに飲み込まれれば、強力な筋肉の収縮と無数の牙によって、鋼鉄の鎧でさえ数秒で塵にされるだろう。
俺は紙一重のタイミングでラクダを横に跳ばせて回避し、着地と同時に魔物を操る術者のもとへ突進を開始した。
しかし、その直後に『危険感知』が最大級の警鐘を鳴らした。
(――くっ!)
強引に手綱を引き、進路を急激に変えて安全圏へ離脱する。
その直後、先ほど地中に潜ったはずのサンドワームが、俺がいた場所の真下から凄まじい速度で突き上げてきた。
目は退化しているはずだが、奴は皮膚で地表の微細な振動を正確に捉えている。
獲物を足元の砂ごと奈落へ引きずり込む、「蟻地獄」のような巧妙な奇襲。あの巨体に似合わぬ、恐るべき隠密能力と機敏さだ。
(術者を先に仕留めるべきだが……そうすると、制御を失ったワームが無差別に暴走し、商隊の方へ向かう可能性があるな)
二匹の魔物に行き手を阻まれている商隊の方からも、絶叫が絶え間なく響いてくる。
一匹に時間をかけすぎるわけにはいかない。
グランド・サンドワームは、素早く、硬く、そして一撃が致命傷。
さて、どう料理してやるか――。
一瞬の静寂の中で戦闘方針を固め、即座にそれを実践へと移した。
俺は何の躊躇もなく、狂暴な災害の懐へと飛び込んだ。




