第210話 行商の護衛、始めました。
俺はザハラ王国の地方都市イスファラの商業組合に顔を出していた。
建物の中に一歩足を踏み入れれば、砂漠の熱風に混じって、古い羊皮紙とインク、そして多くの人間が放つ汗の匂いが鼻を突く。天井の高い石造りのロビーには、常に砂埃が舞い、窓から差し込む陽光がその粒子を白く照らし出していた。
目的は、商隊の護衛任務だ。
俺は領主サーメフから半ば強引にせしめた直筆の紹介状を、無造作に受付のカウンターへと叩きつけた。領主の紋章が入った重厚な封蝋を前にして、組合の職員はあからさまに頬をひきつらせ、不審げな表情を浮かべる。
だが、領主の意向は、この街において絶対だ。
彼らは渋々といった様子で奥の部屋へと消え、やがて戻ってくると、ある部族の長に俺を紹介し、護衛として雇い入れるよう口利きをしてくれた。
部族の名は「アル・ナジャット族」。カリム大臣がこの街への見せしめとして、組織的な襲撃を企てている標的の一つである。
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俺は長の案内に従い、彼らが逗留している商隊宿を訪れた。
宿の中庭には、旅の準備を整えるラクダたちの独特な獣臭が立ち込め、至る所で荷を縛るロープの軋む音が響いている。
「こちらは『漆黒の魔剣士・ゼノス』殿だ。腕利きの旅剣士でな。今回の行商の護衛として同行してもらうことになった」
五十代半ばほどの、日焼けした肌に深い皺を刻んだ長が、関係者たちに向けて俺を紹介した。「領主から無理やり押し付けられた」とは、おくびにも出さない。
彼もまた、余計な反感を生むのがこの状況でどれほど致命的かを理解しているのだろう。
護衛として受け入れざるを得ない以上、波風を立てないのが最善の策だ。
(これだけの規模を束ねているだけあって、状況判断が早いな。老獪と言ってもいい)
アル・ナジャット族の商隊は総勢約五十名。
商人一族が十名、ラクダ使いが十五名、部族抱えの熟練護衛が二十名、そして斥候や雑用をこなす若者が五名。
背負った荷の重みに耐えるラクダの数は、実に百頭にも及ぶ。
荷台に積まれているのは、アースガルド王国の魔法技術が結晶した品々だ。
熱を逃がす加工を施し、触れるとひんやりと冷たい高級シルク。周囲の気温を数度引き下げる、淡く青い光を放つ高純度の「氷晶石」。王国北部の名産である濃縮葡萄酒。さらには耐熱魔法が施され、太陽光を浴びて七色に輝く王家御用達のガラス工芸品。
総売上見込みは約五千金貨。
純利益だけでも二、三千金貨は下らないだろう。
無法者の盗賊からすれば、これほど「美味い」獲物は砂漠のどこを探しても他にいない。
商人たちは、高価な外套に身を包んだ俺を胡散臭そうに睨みつけてくる。
「盗賊の手先ではないか」という、隠そうともしない疑念の視線。
イスファラを出発する直前という極めて不自然なタイミングでの合流だ。不審に思うのも無理もないことだが、長の決定に公然と異を唱える度胸のある者はいなかった。
***
昼の間、俺は宿の隅で目を閉じ、静かに体力を温存していた。
やがて、傾いた陽光が砂漠をどろりと溶けた朱に染める頃、いよいよ出発の準備が始まった。
百頭のラクダが長い首を揺らし、連なる隊列は四、五百メートルにも及ぶ。
砂丘の尾根を這うように進むその姿は、なかなかに壮観だった。
俺が乗るラクダは自前で用意したものだ。
――といっても、サーメフに提供させて手に入れたので懐は痛まない。
厩舎から最高級の個体を選ばせたもので、足取りは驚くほど力強く、背中の揺れも少ない。
俺は部隊の最後尾、しんがりの位置にどっしりと陣取った。
事前の取り決めで、「賊に襲われたら俺が食い止める。お前たちは迷わず先に逃げろ」と伝えてある。効率を考えればそれが最適解なのだが、どうやらその言葉すらも、彼らの不信の火に油を注いでしまったようだ。
夜の冷気が降りてきた頃、とうとう一族の若者が我慢できずに不満を漏らした。
「……おい、あんた。怪しすぎるんだよ。砂漠の旅で――自分一人だけ置いて逃げろなんて、まともな護衛の言うことじゃない。本当は盗賊とグルなんじゃないか? 前から賊が襲い、後ろからあんたが俺たちを仕留める……。そういう手筈なんだろう!」
若者の声は夜の静寂に鋭く響き、ラクダの鈴の音をかき消した。
至極まっとうな推論だ。
俺が彼らの立場でも、こんな訳の分からん剣士はまず疑う。
「まあ待て。この魔剣士殿は領主様からの直々の推薦だ。その意向に背けば我らは二度とこの街で商売ができなくなる。領主様がわざわざ盗賊の手先を送り込むなど、流石に考えにくいだろう」
長が落ち着いた声でその場を収めたが――アル・ナジャット族の者たちが抱く不信の霧が晴れることはなかった。むしろ、物理的な距離以上に俺と彼らの間には深い溝が刻まれていた。
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予定通り、俺は最後尾から一定の距離を保って追走する。
アル・ナジャット族の護衛たちは、俺を「しんがり」という名の「監視対象」として配置したようだ。
俺のすぐ前方、十メートルほど先には部族最強と目される大男の護衛が控え、いつでも俺を仕留められるよう、ヒリつくような殺気を隠しもせず放っている。
夜の砂漠は、太陽の慈悲を忘れたかのように急速に熱を失っていく。
数時間前までの猛暑が嘘のように気温が下がり、吐き出す息が白く染まり始めた。
アースガルド王国の国境からザハラ首都までは、通常二十日から二十五日の旅路だ。
ゴロゴロとした岩場が続く今はまだ楽だが、この先に待ち構える広大な砂丘地帯に入れば、ラクダの脚は取られ、進軍速度は大幅に落ちる。
そここそが、賊にとっての絶好の狩場となる。
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イスファラを出発して半日が過ぎた。
空の端が微かに白み始め、気温が再び上昇に転じる直前。
本日の宿泊予定地を目指して砂を蹴っていた俺の感覚に、複数の「嫌な視線」が突き刺さった。
それは遮蔽物のない砂漠において、隠しきれない捕食者の気配だ。
(……狙ってやがるな。盗賊が隠れていたか――アシュラフの調査通りだ)
臨戦態勢に入った俺の、僅かな空気の変化を察したのだろう。
商隊の護衛たちの間にも、瞬時に緊張が走る。彼らは俺を振り返り、その一挙手一投足を監視しようとした。
「……あの方角だ。斜め後ろの岩陰から、複数の視線を感じる。全速力で逃げろ」
俺は顎で一点を差し、冷静に警告を与えた。
だが、彼らはまだ俺を疑っている。
俺の言葉こそが罠で、本当は前方に伏兵がいるのではないか。
ここで指示に従えば、それこそ賊の懐に飛び込むことになるのではないか。
極限状態におけるその判断は、生き残るための知恵としては正しい。
だが、俺にはそんな疑心暗鬼に付き合ってやる義理も暇もない。
俺はラクダの鼻面を引き、その場に踏みとどまった。
「予定通り、ここから先は俺が引き受ける。一族の荷を守りたいなら、さっさと行け」
そう――
「サンド・ファング」の構成員を「削っていく」ことこそが、俺の真の目的だ。
ついでに請け負った護衛の仕事も、完璧にこなしてやる。
岩陰から、布で顔を覆った二十人ほどの盗賊団が、飢えた獣のように姿を現した。
事態が抜き差しならないものであることを悟った商隊が、悲鳴に近い声を上げて、砂を蹴立てて加速していく。
現れた賊の規模は小さい。
イスファラの支部を俺が半壊させた影響か、あるいは周辺の小都市からかき集められた端数に過ぎないのか。
俺はラクダを悠然と反転させ、獲物どもを迎え撃つべく進み出た。
腰に帯びた専用武器「クロノス・ヴァイス」の柄に手をかける。
――シュリンッ。
抜き放たれた白銀の刃が、消えゆく蒼い月光を冷ややかに弾き、砂漠の闇に鋭い閃光を刻んだ。




