Phase.541 『興奮』
目を閉じると、あの高い木から落ちて来たグチャグチャの死体を鮮明に思い出す。見るも無残になったマッチャンの姿。
俺はマッチャンの事を、ちゃんとした名前すら知らなかった。でもさっきまで会話をしたりしていた相手が、あんな事になってしまったのだと思うと気持ちが悪くなってきて、嘔吐してしまいそうになった。
肉をえぐられ、内臓を引きずり出されて身体中の血を抜かれていた。そしてボロ雑巾のようになって死んでいった。血と内臓の混ざりあった臭い。もしかしたら、次にああなるのは自分だと思うと身体の震えが止まらなくなる。だが俺は、もとの世界へ逃げ込みたいとは思わなかった。ここで逃げ出せば、これまでずっと思い描いていた俺の夢は、確実に潰えるからだ。
「う、うあああああ!!」
ザザザザーーー!
「おい、何してんだ? 気をつけろ。もっとちゃんと前を向いて進め!」
森の中をひたすら歩いていた。マッチャンを襲った狒々から、できるだけ遠ざかろうとした。斜面が急な場所を移動している時に、貝谷が足を滑らせて態勢を崩して転がった。怪我はない。それを近くで見た赤井が、貝谷にもっと気をつけるようにと注意したのだ。
動画撮影をするという同じ目的を持った仲間が死んでしまったというのに、辺染は精神をもう回復させていた。ついさっきまでは、悲しんで見えたが今は違う。率直に例えるなら、ひとしきり悲しんで満足してしまったような、そんな感じだ。
いや。もしかしたら、マッチャンの死を一番悲しんで泣いていたゴッスンに、元気を出させようとしているのかもしれない。
それを考慮しても俺には、辺染が一難去った後にその安心感とあの緊張感に酔って、無駄に興奮して浮かれているように見えた。先程からゴッスン相手に言葉が止まらないし、あちこちを動画撮影している。魔物やファンタジー世界の風景などを撮影するならまだしも、夢中になって撮っているのは草木ばかりなのに。それにまだ、撮影した動画をもとの世界へ持ち帰れるかも解らないのにな。
「長瀬、お前大丈夫か?」
「え?」
隣を歩く熊切。こいつは、本当にタフだ。少なくとも俺なんかよりは何十倍もそう感じる。
「だから大丈夫かって聞いているんだ。なんなら、今からでも女神像のもとへ戻るか?」
「なんだと? その質問、そのまま返してやるよ。どうする、熊切?」
「はあ? 俺は別にやられてねえし、気力は十分だ。そりゃ特別親しかった訳じゃないが、仲間を1人やられた。それなりにショックも受けている。だが、覚悟はとうにできている。俺は冒険を続ける。長瀬、お前と知り合い、異世界へ行く方法を探した。今は気も合う仲だと思っているし、信頼もしれいる。だからお前が今すぐもとの世界へ戻りたいというのなら、女神像まで俺は一緒についていってやる」
「なんだと? じゃあ、借りにもし俺がそれでお願いしますって頼んだとして、その後お前はどうするんだ?」
「そりゃ、お前を無事に見送ったら、波多野さんや貝谷さんを追いかけるに決まっているだろ」
「1人でか?」
「ああ、1人でだ。これも慣れだと思えば受け入れられるし、訓練だと思えば耐えられる」
「そうか。なら、残念だが訓練にはならんな」
「どうして?」
「俺もお前と一緒だという事だ」
「帰らないのか?」
「だから、それを言うのならそっくりそのままそのセリフを返すよ。いったろ? 俺は異世界があるなら、絶対行きたいと思っていたし、その先に何があるのかも知りたい。その為になら、全てを投げうってでも構わないと思っているんだからな」
「死ぬかもしれん」
「死ぬのは嫌だが、命は賭けてもいい」
「そうか、じゃあ一緒だな」
「ああ、一緒だ」
正直、熊切がいてくれて、本当に助かっていた。こういう会話ができる相手。それに、どちらかがピンチに陥った場合、損得抜きで相手を助ける事を優先する関係。それは心強い存在だった。貝谷ともそういう関係であれればと思う。
「長瀬」
「なんだ」
「何処まで歩くんだ? いい加減、森の中も見飽きてきたな。まるでジャングルだ」
「そうだな。でも狒々は、追ってきていないようだ」
襲われた場所は、狒々のナワバリだったのだろうか。今は気配を感じない。先頭を行く波多野達は何度も振り返ったり、周囲を見渡したりしている。それでいて、特に何も問題はないようだ。後方から、辺染とゴッスンの声が聞こえてきた。
「ハアーーー、ハアーーー、つ、疲れた!! 疲れたああああ!! ちょ、ちょっとここらで休憩にしないか」
「そうだ、それがいい。そうしよう。喉も乾いたし、ちょっと休憩しようぜ」
2人の背負っている荷物の大きさ自体は、俺達と大して変わらなかった。でも重量が違う。辺染とゴッスンが背負っている荷物の大半は、動画撮影で使用する機材や道具一式でとても重そうだった。
辺染は、ゴッスンからも同意を得ると、先頭を歩く波多野達に向かって叫んだ。
「おおーーーい!! 波多野ちゃーーーん!! ちょっといいかな。ここらで、ちょっと休憩を取りたいんだけどおおおお。俺達、普段歩き慣れてないから脹脛とかもうプルプル痙攣しちゃってんだわ」
「脹脛が痙攣ですか。それはよくありませんね。もしもの時に思うように動けなかったりしますからね」
「おい、波多野。もう少し進んでから休憩するって言ったよな?」
「そうですね、赤井さん。でも彼は、今自分で言ったように歩く事に慣れていないみたいですし、ちゃんと動けるように休息はとっていないと、いざという時に対処できなくなってしまいます」
いざという時――それは、間違いなく狒々などの魔物に、いきなり襲われて逃げるしかない状態の時だろう。
「まあ、でもそうですね。あまり無理をしてもあれですし、じゃあもう少し歩いた所で……」
ヒュンッ!!
森の中、何かが飛んできた。それは俺の頬を掠める。ピリリとした痛みを感じて、頬を触ると手にべったりと血がついていた。そして波多野が崩れた。
赤井が波多野の名を叫ぶ。驚いて目を向けると、波多野の胸には深々と矢が突き刺さっていた。




