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第9章 立ち退き

 その話は、実里が思っていたよりも早くやってきた。昼食後の寛ぎを求めてやってくる客たちが帰っていった午後1時過ぎ、店が少し落ち着いた時間帯だった。スーツ姿の男性が2人、店に入ってきた。どちらも同じような黒い鞄を持ち、店の空気にそぐわない整った格好をしていた。客ではないと実里はすぐに分かった。男性たちはカウンターの前に立ち、軽く頭を下げた。

「岸田さんでいらっしゃいますか?」

一瞬だけ言葉に詰まったが、先日六甲グリーンホームの行政書士から名義変更済みの登記簿の写しが郵送されてきたことを思い出して、すぐに小さく頷いた。

「はい」

男性のひとりが名刺を差し出した。見慣れない会社名だったが、市の外郭団体であることが社名から推測できた。用件は訊くまでもなかった。話は簡潔だった。再開発の正式決定と対象区域。立ち退き勧告と今後のスケジュール。

「まだ少し先のことにはなりますが…」

男性は丁寧な口調で続ける。

「皆様のご理解とご協力をお願いする形になります」

実里はただ聞いていた。相槌を打ち、頷きながら。言葉の意味は分かるのに、どこか遠くで聞いているような感覚があった。店の中は、いつもと同じだった。カウンターのうえには サイフォン器具と窓から入る夕暮れ前のわずかな光。何も変わっていないのに、いま聞いた再開発の説明だけが、場違いに浮いているように思えた。

 男性たちが帰ったあと、店は元の静けさを取り戻した。しかし、カウンターの上に置かれた独立法人名が印刷された角1サイズの白い封筒はそこに残っていた。実里はそれを手に取ったが、なかに入っているであろう立ち退きに関わる何らかの書類の重さが、思ったより軽く感じられた。ドアベルが鳴って、ふり向くと、今井花壇の菜穂子が立っていた。

「いらっしゃいませ」

目が合うと、何も言わずに頷く。それだけで、話は通じていた。菜穂子はカウンターに近づき、封筒にちらりと視線を落とした。

「とうとう来たね」

実里も小さく頷いた。菜穂子にコーヒー出してしばらくすると、染井がやって来た。今朝いつもの定時来店があったので、今日2回目の来店だ。いつもの奥の席に座りながら2人に目を向けて、苦虫を嚙み潰したような顔で苦笑した。

「ついに来たか」

その話しかたは軽かったが、どこか無理をしているようにも思えた。

「ま、近いうちに鶴鮨の大将から、あ、安藤さんな。あの人から商店会長として連絡あると思うから、みんなで集まって忌憚のない意見交換してほしいということやったわ」

実里も菜穂子も黙って頷くしかなかった。

 夕方になる頃には、その話は商店街のあちこちに広がっていた。誰かが話し、誰かが聞き、また別の誰かに伝える。(なごみ)でも同じような話が繰り返されていた。

「駅前、きれいになるらしいで」

「新しい店も入るんやろ」

「うち、家賃、上がるんちゃうやろか」

「もう年やし、ええ機会やわ」

同じひとつの出来事なのに、受け取り方はばらばらだった。前向きな声もあれば、諦めたような声もある。どれも間違いではないように思えた。

実里はカウンターのなかで、いつもと同じ手順でコーヒーを淹れながら、それらを聞いていた。ロートに入れる竹ベラのタイミングが、わずかに遅れる。自分でも気づくほどに、動きが鈍かった。閉店時間が迫るにつれて、いつものように客足が途切れた。店のなかは静まり返る。表通りを行きかう人も少しずつ減っていく。この情景もいつものことだ。

 実里はカウンター席のいちばん手前の席、父巌の常席に座って、ようやく封筒を開けてみる。AIが描いたと思われる再開発後の駅前イメージのイラストが表紙になった二つ折りの厚紙ホルダーに整った書面が数枚入っている。日付、期限、補償、移転の案内と、すべてが、あらかじめ決められていた。ゆっくりと書類を元に戻して封筒を閉じた。紙と紙が擦れ合うその音がやけに大きく感じられた。実里はカウンターの奥に視線を向ける。サイフォンが、いつもの場所に置かれている。和が立っていたカウンターのなか。客として巌が座っていたこの席。先日、古びた帳簿で見つけた文字が頭をよぎる。(和)と(このままでいい)という小さく書かれた言葉。実里はしばらく動けなかった。何かを考えようとしているのに、うまく形にならない。このままではいられない。それだけははっきりしている。実里はコーヒー豆を定量ミルで挽き、ロートに入れる。フラスコにミネラルウオーター―を入れて、アルコールランプに着火する。青い炎が揺れる。やがて、湯がゆっくりとロートへと上がっていった。実里はそれを撹拌しながら、グリーンホームにいる和のことを考える。この店は、残せるのか。残すべきなのか。答えは、まだ出なかった。ただ、コーヒーだけが、いつも通りにフラスコに戻っていく。実里はいつものその情景を黙って見つめていた。


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