第10章 揺れる決断
翌朝、商店街の空気は、どこか落ち着きがなかった。いつもと同じように店は開いているし、シャッターが上がり、看板も出ている。しかし、人の動きや声の調子がわずかに違っているように思えた。実里が店を開けると、すぐに染井がやってきた。
「おはようさん」
「あ、おはようございます」
染井の声はいつも通りだったが、いつもの椅子に座る動きが少しだけ早かった。レジ横に置いてある経済新聞を持っていない。
「コーヒー、ええか」
「あ、はい」
実里は少し微笑んで染井を見てから、サイフォンの準備を始める。フラスコにミネラルウオーターを注いで アルコールランプに火を点ける。いつもの手順に変わりないが、その一つ一つの工程を確かめるようにして動かしていた。
「どうするつもりや」
染井はいつものようにカウンターに両肘を付き、目の前で手を組んで、顎を乗せるポーズをとる。サイフォンの動き見つめ、コーヒーが落ちるのをじっと待ちながら、唐突に訊ねてきた。その問い掛けを避けることができないことが実里は分かっている。
「まだ、決めてません」
「せやろな…」
染井はと小さく頷いた。
「うちはな…」
少し間を置いてから続けた。
「たぶん…。やめるわ」
実里は顔を上げた。
「えっ?」
「もう年やしな。嫁はんもまたどこかで一から始める気力はないって言うとるし。ええ機会かもしれんわ」
言葉は軽かったが、その奥にあるものは軽くなかった。
「残るもんもおるやろうし、新しいとこで、またやるって人もおるやろ」
染井は首を横へ向けて、ロートに竹ベラを入れて撹拌している実里に笑い掛けた。
「実里ママはどうしたいんや?」
実里は染井に一瞬目を向けたが、その問い掛けにはすぐに応えず、コーヒーがフラスコに落ちきった熱くて黒い液体を、ソーサーに乗せたカップに注いで染井の前に差し出した。
「分かりません」
正直に言うしかなかった。
「ま、そらそうやろな」
染井はカップを手に取り、少しだけ笑った。その後は二人とも何も云わなかった。静かな店内にコーヒーの香りだけが広がっていた。
昼前に今井花壇の菜穂子がやってきた。いつもより少しだけ落ち着いたような様子を見せながら、コーヒーを注文し、短く訊ねた。
「考えた?」
実里はサイフォンをセッティングしながら、首を横に振った。
「まだです」
菜穂子はカウンターに手をついて、店のなかを見渡した。
「うちもな…」
ぽつりと云った。
「迷うてる」
実里にはその言葉が少し意外だった。菜穂子はもっと明確な考えを持った人だと思っていたからだ。
「こんなこと、花屋の自分が言うのも可笑しいけど、花なんか、どこで売っても売れるんよ」
菜穂子は少しだけ笑って続ける。
「せやけどな…」
そこで言葉を切って、俯きかげんでカウンターに乗せた自分の両掌を見つめた。
「ここで売るのがええんよ。この通りで」
実里は軽く2~3度頷いて、沸いた湯がロートに上がるのを何も言わずに見つめていた。
「商売する場所…。ま、住む場所もおんなじことやけど、ただの場所とちゃうと思うんよ」
菜穂子はどこか静かだった。
「それって、人が積み重ねてきたもんやからな」
実里はフラスコに落ちきったコーヒーをカップ注いで、菜穂子の前に差し出しながら、頭のなかに巌の姿が浮かんでいた。何も云わずにただ働いていた巌。そして、帳簿に残された(和)という一文字。
「なあ?」
菜穂子がずっと俯き加減だった顔を上げて実里を見つめる。
「和さんもそうやけど、岸田さんやったら、どうするやろな」
その問い掛けは、染井のそれよりも重く感じられた。実里は少しだけ視線を落として考えようとしたが、すぐに答えは出ない。巌は何も言わない人だった。だからこそ、実里には余計に分からない。ただひとつ思い出すのは壊れたものを黙って直している姿だけだった。
その日も夕方になり、客足が落ち着き、店内に静かな時間が戻る。実里はカウンターの奥に立ち、サイフォンを見つめていた。この店は残すべきなのか。それとも。新しい場所で、やり直すべきなのか。どちらも間違いではないように思えた。だからこそ、選べなかった。実里は引き出しを開けた。例の帳簿を取り出す。あのページを開く。
(和)
その字を見ていると、不思議と落ち着いた。
(なごみはこのままでいい)
その言葉をじっと見つめる。実里は帳簿を閉じた。自分で決めなければいけない。父でもない。和でもない。実里自身で。店の中は静かだった。その静けさのなかで、実里はゆっくりと息をついた。




