第11章 それぞれの選択
その日の夕刻も客足が途切れたので、実里は店を少しだけ早く閉めた。行くあてがあったわけではない。ただ、店の中にいると、考えが同じところを回り続ける気がしたのだ。 シャッターを下ろして駅前通りに出る。見慣れた商店街のはずなのに、どこか違って見えた。再開発の話が現実として、本格的に進みだしてから、まだ1か月余りだ。それでも、人の視線や声の調子が、わずかずつ変わっていくように思えた。
最初に足が向いたのは、美容室(ヘア&ファッション茜)だった。正面のガラスドア越しに中をのぞくと、大槻拓哉が客の髪を整えていた。奥では茜がドライヤーを手にしている。ドアを開けるとベルが軽く鳴った。
「いらっしゃいませっ。あれ?実里ママ」
拓哉が鏡越しに気づき笑顔を見せる。
「どうしたの?」
茜は若い女性の長いスレートヘアをドライヤーでセットしながら実里を見た。
「ちょっと…」
「うん、わかった。そこで待っててくれる?今日はこのお客さんが最後だから」
茜は奥の待合スペースをセットブラシで示して、セットしている女性に顔を向けて微笑んだ。実里は云われた場所のソファに座って、マガジンラックに置いてあるファッション雑誌のページを読むでもなく繰っていると、しばらくして茜が近づいてきた。
「聞いたよ。なごみも。そのことでしょ?」
実里は頷いた。実里と茜のあいだに少しだけ沈黙があって、お互い次の言葉を探しているところへ、拓哉がもうひとりの若い男性客を優菜と共に見送ってから戻ってきた。
「うちはね、もう決めたんだよ」
はっきりした声だった。
「場所変えて、店続けることにしたんだ」
実里は思わず顔を上げた。
「もう?」
拓哉は実里に両手を広げて、悪戯っぽく少し首を傾げた。
「そうだよ。悩んでてもしょうがないし。やることは一緒だし」
茜も小さく頷いた
「正直、不安だけどね。もう決めちゃったから」
拓哉はわざと大袈裟に笑う。
「この人、ほんと何でもすぐに決めちゃうからね」
茜も拓哉に振り返って同じように笑った。その空気は不思議と明るかった。店がなくなる話をしているはずなのに、終わりではなく、新しく始まる次のスタートの話をしている。
「で、実里ママはどうするの?」
実里は少し言葉に詰まってから応えた。
「まだ、決められへんねん」
拓哉は真剣な顔をして頷いた。
「でも俺、どっちでもいいと思うよ」
「どっちでも?って?」
「うん、残すのも正解だし、終わるのも正解ってこと」
拓哉は実里の目をしっかり見てから、同意を求めるように茜にも頷いた。
「無責任なように聞こえるかもしんないけど、大事なのは自分で決めるってことでしょ?」
その言葉が少しだけ実里の胸に残った。
(ヘア&ファッション茜)を出ると、夕方の光が通りに伸びていた。
少し歩いて、ラーメン屋の前で足を止める。暖簾の向こうから、いつもの匂いが流れてくる。店のなかでは店主の川口幸雄がひとり仕込みをしているのが見えた。
実里は入口のガラス戸越しに会釈した。川口は実里を見て、右手を挙げてから、掌を(おいでおいで)をするように上下に振った。実里はそれを見て、笑顔を見せながらガラス戸を開けた。
「実里ちゃん、聞いたで、あれ」
川口はラーメンにトッピングするいくつかの具材を調理しながら実里に顔を向ける。
「まあ、ええんちゃうんか」
川口は他人事のような口ぶりで笑った。
「場所変わっても、ラーメンはラーメンやしな」
それは妙に軽く聞こえたが、何となく説得力も感じた。
「客が来るとこでやる。それだけや」
寸胴鍋から立ち上がる湯気の向こうに、川口の笑顔が見える。実里は何も言えなかった。 それもまたひとつの考え方だった。
「うちは元々先代のじいさんがやってた食堂を引き継いで、フランチャイズのラーメン屋にしただけやし、大した思い入れもないからね」
川口は胸を張って両手を腰に当てると、わざと偉そうな態度を見せて笑い掛けた。
ラーメン屋を辞去した実里は、小さな本屋の前で足を止めた。シャッターは半分閉まり、店内は薄暗い。なかに入ると、紙と印刷インクの匂いが充満していた。
「こんにちは~」
実里が天井近くまで棚になった壁面を見ながら、ゆっくり奥へ進んだ。店主の陽川浩一郎はカウンターの奥に座っていた。顔を上げて実里を見る。
「ああ、実里ちゃんか…」
陽川は笑みを浮かべた。
「聞いとるよ」
静かな声だった。実里はしばらく何も言わずに、びっしり本が並んだ棚を見つめていた。変わらない風景だった。陽川もそんな実里を見ている。
「いつか終わるもんやで」
実里は振り返った。
「形あるもんはみんなそうや」
陽川は実里に目を向けたまま続けた。
「みんな自分勝手に、ずっと続くもんやと思うてるだけや」
その言葉には重さがあった。それは長く続けてきた人の重さだった。
「陽川さんは辞めはるんですか?」
実里がカウンターの前に立って訊ねると、陽川は吐き出したくなるほど不味いものを口に入れたような顔をして、少し笑ってから頷いた。
「店も、わしも潮時やろな」
「えっ?」
「嫁さんは早うに亡くなってしもたし、嫁いだ娘はほとんど音沙汰がない。息子は息子で、どこかの女を連れて、行方不明ときとる…」
陽川は溜息を大きくひとつ付いて続けた。
「せやから、もうええんやわ」
そんな話を陽川から初めて聞いた実里は何も云えなかった。
店を出ると、すでに夕暮れの空が迫っていて、あちこちに明かりが灯り、うす暗くなった通りを照らしていた。駅前通りの角で、後ろから突然声を掛けられた。
「実里ママ?」
振り向くと、八木優菜が立っていた。
「あ、仕事終わったの?いま帰り?」
「うん」
実里と優菜は少し並んで歩く。
「さっきお店で話してた再開発のこと、聞いた?」
実里が前を見たまま訊ねた。
「うん。美容学校でもね、この辺りのこと、ちょっと話題になってる」
優菜は実里の横顔を見ながら頷いた。
「へー、こんなところの?どっちかって言うたら、場末の街やよここ。話題になるんやね」
「うん、SNSでもアップされてるし、意外と有名かも…」
優菜がぽつりと呟いた。
「あたしな…、この街、なくなってもええかなって思うてるんやわ」
実里はひとつ頷いて、何も云わず続きを待った。
「正直、ここらへん古臭いしね…」
優菜は少し笑ったようだった。
「でも…」
そこで一息ついてから続けた。
「(なごみ)はなくなったら嫌やわ」
「えっ?何で?」
その一言は実里にとって思ってもみなかったことだったし、優菜の気持ちが真っすぐだったことも分かった。実里は足を止めて優菜をじっと見つめた。優菜は少し照れたように笑った。
「こんな古臭い街で、なんか(なごみ)だけ、うん、あそこだけやわ、ほんまに。ママんとこだけ違うねん」
「そうなん?あたしにはわからへんけど、どう違うん?」
「うまく言われへんねんけど、前のママ、和さんって云うんやった?その人から実里ママが受け継いだもんって云うか、あそこには何かがあると思うねん」
優菜はその通りの先に見えている(なごみ)の見慣れた店先を指差して頷いた。今日はすでにシャッターを下ろしているので(なごみ)と、その名前がシャッターに書かれているのが見える。実里は優菜からの思いがけない言葉に、何とも云えない嬉しさと喜びのような気持ちがこみあげてくるのを覚えながら、駅に向かう優菜に手を振って見送った。
人にはそれぞれの答えがある。続ける人。辞める人。変わる人。そのなかで実里はどうするのか。まだその答えが出せないでいる。しかし、いままでより、少しだけ輪郭が見えたような気がしていた。




