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第12章 帰る場所

 その日、実里は久しぶりに自宅へ戻って室内を見回す。巌が亡くなってから、自宅に帰るのが面倒になって、店を閉めた後、店の2階の部屋で過ごすことが多くなっていた。信也が出張で帰ってこない日などは、誰もいない部屋に戻る気はしない。人がいない時間が長いせいか、生活の気配が薄い。灯りをつけても、どこかよそよそしく感じられた。リビングのテーブルに見慣れた鞄が置かれている。信也が帰ってきているのだと分かった。

「あれ?信也さん?帰ってるん?」

声をかけると、奥の部屋から信也の声が返ってきた。

「おかえり~」

少し遅れて信也が姿を見せた。

「あれ?出張、明日までって言うてへんかった?」

「あ、うん、意外と順調やったから1日早く切り上げたんや」

「連絡くれたらよかったのに…。食べるもん何にもないよ」

「ああ、ええよ。ええよ。こんなん貰うたから、一緒に食べよ思うて」

信也は笑顔を向けながら、函館の海産物が詰め合わせになったパッケージを見せた。

「えっ?それ生もんばっかりやないの?大丈夫?」

「向こうで、半日程度持つドライアイス入れてもうたから問題ないはずや」

実里は不安そうにそれを受け取って、外側の包装紙を剥がし、中身を確かめながら頷いた。

「うん、大丈夫そうやね…。じゃあ、すぐ準備するからちょっと待ってて」

実里は手早くパッケージを開封すると、食器棚から大皿を出して、ズワイガニ、タラバガニ、キングサーモンにイクラなどを盛り付けて、ダイニングテーブルにセッティングした。

「信也さん、ホッケ食べるでしょ?これ、ちょっと焼かなあかんから、もうちょっと待ってな。そのあいだに着替えてくるわ」

実里は寝室隣のドレスルームにしている小部屋に入っていった。

「店、どうやった?」

信也は実里に聞こえるように、少し大きめの声で呼びかけるように訊ねた。

実里は部屋着にしているスウェットセットに着替えて出てきた。

「いつも通り」

信也は頷いたが、それ以上は深く訊かなかった。

「ビールでええかな?」

キッチンに入った実里は冷蔵庫を覗き込んで訊ねた。

「うん、ビールでええよ。これ意外といけるかも…」

信也はズワイガニの身を同梱されている2杯酢につけて口に運んでいる。

「ごめんね。せっかく予定より早よ帰ってきたのに食べるもんなくて…」

実里はビールグラスを2つ出して、ロング缶のビールをそれぞれに注いだ。

「はい、お疲れさま~」

実里はグラスを合わせたあと、半分ほどを一気に飲んで、信也に微笑み掛けた。

「再開発の話、進んでるみたいやわ」

信也の手が一瞬止まった。

「そっか…」

信也はグラスのビールを飲み干して、微笑んでいる実里に目をやった。

「立ち退きも…。現実的に考えたほうがよさそうやな」

「どういう意味?」

実里がそれぞれのグラスにビールを注ぎ足しながら上目使いで訊ねた。信也は少しだけ言葉を選んでいるようだった。

「続けるんか、辞めるんか、決めなあかんやろ?」

それは店で聞いたことと同じだったが、どこか違って響いた。

「場所、変えてもやれるんやろ?コーヒーは変わらへんねんから」

「ま、そうやねんけどね…」

実里が頷いていると、焼き魚モードにしたガスグリルが小さな音で仕上がりを伝えた。縞ホッケが焼けたらしい。実里は細長い焼き魚プレートに乗せてテーブルへ置いた。

「脂がのってて美味しそうやわ、これ」

取り皿を信也に渡しながら微笑んだ。

「うん、そうやな、ほんま美味そうや」

信也は箸で身をほぐす。

「でも、無理にあの場所に残す必要はないと思うで」

信也はほぐした身を口へ運んで、咀嚼しながら続けた。

「あそこに残すことで、負担になるだけやったら、意味ないやろ?」

実里は俯き加減に視線を落とした。

「そうやね…」

信也は疲れているのか、美味そうだと言いながらも、大して箸も進まず、ビールの残りを飲み干した後、自身の腕に鼻を付けて臭う仕草をした。

「風呂入るわ。ちょっと汗臭い。悪いけど、先に寝てもええか?」

「うん、ええよ…。お疲れさま~」

実里はバスルームへ入っていく信也に頷きながら、ひとりリビングに残る。

静かな部屋だった。(なごみ)のことを思い出す。サイフォンの湯が沸き上がる音。カウンターの木の感触。そしてあの一文字。(和)実里はゆっくりと息を吐いた。信也が言うことは正しい。しかし、それだけでは足りない何かがあるような気がした。

 翌朝、信也の出勤は午前11時のフレックスとのことなので、実里はサイフォンが使えるようにコーヒー豆を挽いて、ロートにセットする。リンゴとバナナそれにヨーグルトを冷蔵庫内で一プレートに準備して、その旨書いたメモ用紙をリビングのテーブルに置いてから家を出た。

自宅から店までゆっくり歩いて、おおむね8分、距離的には500メートルあるかないかで、朝の運動量としてはちょうどいい。実里はいつものように店を開ける。朝の光がいつもより静かに差し込んでいるように思えた。シャッターを上げ、ドアを開ける。ドアベルの音もいつもと同じ。カウンターのなかに入ってサイフォン器具をセッティングすれば、いつも通りに店は始まる。しかし、今朝はその前にやることがあった。実里は、カウンター後ろの棚に手を伸ばした。小さな引き出しを開けて、和が書いていた帳簿ノートを手に取る。ページを繰って先日見つけたあの文字を見つめる。

(なごみはこのままでいい)の一行と(和)の一文字。

「和さん、どないしょ?お父さんはどうしたい?」

実里は声を出して、独り言のように2人に問い掛けた。返事があるわけもないが、しばらくじっと待っていた。時間的には10秒足らずだと思うが、相当長く感じられた。仕方なく帳簿を元に戻し、引き出しを閉じようとしたとき、何かが引っ掛かったようで、うまく収まらない。

「あれ?」

実里は思わず声を出した。よく見ると、引き出しの底板裏に白い角封筒がセロハンテープで張り付けてある。それが剝がれかけて、収納の邪魔をしていたのがわかった。封筒が破けないようにゆっくりと剥がして、開封してみた。昔懐かしい印画紙にプリントした写真と4つ折りにした便箋が入っていた。それは(なごみ)がオープンした頃のものだ。店先の看板はいまより少し明るい色で、その前で巌が笑顔で立っている。その隣には同じように微笑みながら和がいた。並んで写っているのに、少しだけ距離をとって写っている。しかし不思議とそれが離れているようには見えない。写真の裏には(なごみ)と、それだけ書いてあった。実里はしばらく、その文字を見ていた。帳簿のなかに見つけた文字と同じだった。写真を元に戻して、4つに折り畳まれている便箋を手に取って開いてみる。短い文章が書かれている。整った文字ではなかった。巌の文字だった。多くは語られていない。いつも通りだった。

(残すのは場所ではない)

実里はそこで手を止めた。行間を空けてひと回り大きな字で書いてある。

(それは人)

それだけだった。説明はない。理由も書かれていない。しかしその言葉ははっきりとそこにあった。実里はその便箋を持ったまま動けなかった。頭のなかでいくつものものが繋がっていく。帳簿のなかで和が書いたひと言(なごみはこのままでいい)と、ひと文字(和) 店の名前(なごみ)そして、昨夜の信也の言葉(場所を変えてもできる) すべてが同じところへ向かっているように思えた。実里はゆっくりと息を吐いた。巌は残そうとしていたのではない。守ろうとしていたのでもない。ただ、続けようとしていた。形ではなく。場所でもなく。そこにあるものを。実里はその便箋を元通りに折りたたみ、封筒へ写真と共に入れて、元の場所に戻した。カウンターのなかに立つ。いつもの位置だった。サイフォンにドリップポットでミネラルウオーターを入れる。アルコールランプに火を点ける。しばらくすると泡が立ちはじめ、湯がロートのなかへゆっくりと上がっていく。その動きを見ながら実里は思った。どこでやるかではない。どうやって続けるかだ。竹ベラで撹拌して、消火キャップ被せて火を閉じると、湯がゆっくりと落ちてフラスコに収まっていく。コーヒーができあがる。店のなかはいつもと同じだった。実里のなかでは何かがはっきりと変わっていた。まだ、言葉にはならない。しかし、もう決めることはできる気がした。


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