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第13章 それぞれの場所

 閉店の日は、思っていたよりも静かに始まった。特別なことは何もない朝だった。シャッターを上げると、いつもと同じ通りがそこにある。見慣れた店並び。見慣れた空気。ただ、それが今日で終わるというだけだった。 店のなかも変わらない。カウンター。サイフォン。使い込まれた椅子。すべてがいつも通りそこにある。

 実里はカウンターのなかに立つ。手を動かせば、いつものように店は始まる。それが少し不思議に感じられた。今朝もいつものようにマドレーヌを焼くつもりで準備して、シェル型に生地を流し込んでオーブンに入れたところだ。

カラン、カラン。ドアベルが鳴る。いつものように最初に来たのは染井啓介だった。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

いつもと同じ朝の挨拶だ。

「開いとるな。おはようさん」

染井もいつもと同じ挨拶で席に座る。

「今日で最後やな」

そう言いながらも声は軽かった。

「はい」

実里は少し微笑んで頷いてから訊ねた。

「いつものでいいですか?」

実里は染井が頷くのを見てから、フラスコにドリップポットでミネラルウオーター―を入れて、アルコールランプに火を点ける。しばらくすると泡が立ちはじめ、湯がロートのなかへゆっくりと上がっていく。何度も何度も繰り返してきた動きだった。

「決めたんやな」

染井がその動きをいつものように見つめながらぽつりと呟く。

「はい」

実里はまた軽く微笑んで短く応える。それ以上の説明はいらなかった。

「うちも今月いっぱいでたたむことで決定や。フランチャイズ本部もそれで了承してくれたわ」

「あ、そうなんですね。本部と揉めなくてよかったやないですか」

実里はカップにコーヒーを注いだカップをソーサーに乗せて染井の前に置いた。染井はそれを手前に引き寄せると、ゆっくり口元に持っていき、一口飲んだ。いつもの軽口があまり出てこない。何となく湿っぽさが染井を包んでいるように思えた。

 しばらく会話が途切れたところへ、今井花壇の菜穂子がやって来た。

「いらっしゃいませ~」

実里はいつもように対応する。

「ブレンドでよろしいですか?」

菜穂子はひとつ頷きながら、カウンターに肘をついて、店のなかを見渡してから呟く。

「ええ店やったね」

「はい、ありがとうございます」

実里も大きく頷いて微笑んだ。

「次、どうするん?」

実里は少しだけ間を空けたあと、ゆっくり応えた。

「まだ、ちゃんとは決めてません…」

「けど…」

もう一度、言葉を切る。

「続けます。っていうか続けたいんです。あたし」

「そうなん?そやね、辞めたくないんやったら辞めたらあかんよ。うん、よかった」

菜穂子は小さく頷いた。それだけで十分だった。

 午後になると、客がぽつぽつと訪れた。常連ばかりだった。(ヘア&ファッション茜)の大槻夫婦も顔を出した。実里は大げさに両手を広げ笑顔で応えた。

「いらっしゃいませ。マドレーヌいっぱい焼いたから食べてって。今日はサービスっ、タダっ!」

「えっ?そうなの?」

茜は嬉しそうに実里の顔を見る。

「今日はまず、顔出ししなきゃって。あとで優菜ちゃんと交代するからね」

拓哉が笑う。

「新しい店、決まったんですか?」

実里が拓哉と茜を交互に見て訊ねると、茜が頷いた。

「うん、駅の反対側、西口側だけど、空き店舗があってさ、立ち退き料で改装費用は賄えそうだからね」

「買うたんですか?」

「いえいえ、とりあえずは賃貸でやろうってことで、ほら、優菜ちゃんが独立するときのことも考えないとね」

「そっか…」

「あそこだったら、いまのお客さんが来るのも、そんなに不便じゃないしね。実里ママもいままで通り来てよね」

その言葉は、終わりではなく、続きの言葉だった。

 ラーメン屋の川口幸雄も珍しく顔を出してくれた。

「あ、いらっしゃいませ。来てくれはったんですか?」

実里は笑顔で迎えた。

「ああ、最後ぐらいはと思うて。うちも次の場所、ええとこ見つけたし…。それ報告しとかんあかんと思うてな」

「え?どこですか?」

「そこ出て、国道沿いや。店舗前に駐車スペースも3台分ぐらいあるし、元々クレープみたいなもん売ってた店知ってるやろ?あの店の居抜きや」

「ああ、あそこやね」

実里はクリームの他に、いろんな果物を包んだクレープを売っていたのを思い出した。  

 本屋の店主、陽川浩一郎も少し遅れてやって来た。店のなかをゆっくり見回して、カウンター席に座ると、胸の前で腕を組んで実里を見た。

「よう続いたな。和ちゃんも、岸田さんも喜んでることやろ」

 夕方になって、八木優菜がひとりでやってきた。

「いらっしゃい。いま上がり?」

「うん、実里ママのとこへ顔出せって、茜ママがちょっと早いけど、上がってもえからって。今日で最後なんやね?」

優菜はカウンターに座りながら真剣な目で実里を見た。

「うん、そう…。優菜ちゃん、コーヒーでええ?」

実里は優菜が頷くのを見てサイフォンの準備を始めた。

「でも、なんか、変な感じやわ」

優菜は首を傾げて続けた。

「なくなるって、実感ないなあ…」

実里は何も云わずにロートに挽いたコーヒー豆を入れる。しばらくすると、ロートに湯が上がって、それを撹拌する。火を止めて、コーヒーがフラスコに落ちる。実里はゆっくりカップに注いで優菜の前に差し出した。

「でもね…」

優菜は差し出されたコーヒーカップに手を添えて、立ち上る湯気をを見つめている。

「なくなっても、別に全部なくなるわけちゃうもんね?」

その言葉に実里は少し目線を上げた。

「あたしは覚えてるし…」

優菜は少しだけ照れたような顔で微笑みながら続けた。

「ここで飲んだコーヒーとか、そう云うのは残るから…」

実里も優菜の微笑みにつられたように口角を上げて、小さく頷いた。 

 その日の(なごみ)は常連ばかりで、久しぶりに忙しく、いつもより多い目に焼いたマドレーヌも無料とはいえ、すべて消化することができた。いま最後の客を送り出して、店のなかに静けさが戻る。

 実里はカウンターのなかに立ったまま、しばらく動かなかった。サイフォンを見つめる。 アルコールランプにもう火はついていない。それでもそこにあるだけで、何かが続いているように思えた。棚下の小さな引き出しを開ける。帳簿がある。あのページを開く。

「和」

指でなぞる。写真の裏の文字。父の残した言葉。

「残すのは場所やない。人や」

実里はゆっくりと帳簿を閉じた。店の中を見回す。ここで過ごした時間。ここで交わした言葉。それはここにしかないものだった。でも…。ここにしかないままではいけない気がした。

実里はカウンターから出た。ドアの前に立って振り返る。店のなかは静かだった。

「なごみ」

小さくつぶやく。その名前はここにあった。これからも、どこかに続いていく。実里はカウンター横の壁際にある室内照明のスイッチを押し下げた。真っ暗な店。コーヒーの香りだけが微かに残っている。ドアを開けて外に出る。シャッターをゆっくりと下ろす。ガラガラッと音がいつもより大きく響いた。

駅前通りにはいくつかの店の灯りが残っている。またいくつかはすでに消えている。それぞれの場所で、それぞれの人生が続いている。実里は振り返らず、前だけを見て、歩き出した。この夜の帳の向こうに、まだ見えない人生があるはずだから。


おわり


長い間、お読みいただきありがとうございました。「カフェなごみ」はこれで完結です。

実里をはじめとした駅前商店街の皆様にご多幸あれ!

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