第8章 和の決断
実里がホテルのパティシエールを退職し、(カフェ・なごみ)を本格的に和から引き継いだある日、お客さん二人を送り出し、そのまま表に出て、意味もなく、しばらくボーッと駅前の景色を見ていると、向こうのほうから今井花壇の女主人、今井菜穂子に呼び掛けられた。店先には季節の花が並んでいる。バケツの水に光が反射して、きらきら輝いていた。
「ちょっとええかなあ?」
実里は頷いて表へ出た。菜穂子は実里に向かって掌を上下に振って店先へ来るよう促した。
「この前な、河合さん、来とったやろ」
「はい」
「再開発の話、聞いたんやな」
実里は少しだけ頷いた。菜穂子は小さく息をついた。
「まあ、まだどうなるか分からへんけど…」
菜穂子は意味ありげに少し間を置いてから続けた。
「あんたのお父さんな」
実里は菜穂子のその言いかたが少し気になったが、黙って続きを待った。
「よう働く人やったわ」
菜穂子は入荷したばかりのエリカの鉢植えを手に取って、白い花弁と枝葉を整えながら展示棚に並べた。
「無口な人やったけど、ほんまによう働きはったわ」
「ありがとうございます。けど、父のことなんか、今更どうしはったんですか?」
それは実里の知っている父だった。菜穂子は少し笑ってから頷いた。
「でもな、それだけやないんよ。和さんのことは聞いたことある?」
実里は胸の奥が少しだけざわついた。
「少しだけなら…」
「そう…」
菜穂子はピンクのエリカの鉢植えを持ち上げて、光に透かすようにした。
「あのこもええ人やったわ」
どこか遠くを見るようだった。
「お父さんと、よう一緒におった」
知らない話だった。でも、どこかで予感していたような気もした。菜穂子は続けた。
「けどな」
少しだけ声を落とす。
「不思議な関係やった」
実里は思わず聞き返した。
「不思議?て、何ですか?」
「うまいこと云われへんけど…。そう、夫婦やないのに夫婦みたいで、恋人同士やのにどこか距離があって」
鉢植えを戻しながらぽつり呟いた。
「ああいう人らも、おるんやなって思たわ」
菜穂子はしばらく何も言わず、今度はバラの切り花の茎を切りそろえる。カチン、カチン、と小さな音が続く。実里は何も考えられず、菜穂子の作業を見つめたまま、その音を聞いていた。
「実里ちゃんはなんでやと思う?」
実里は不意にそう訊ねられて、下向き加減の顔を上げた。
「え?」
「なんで、あの二人、結婚せえへんかったんやろな」
実里が知るはずもないし、そんなこと考えたこともなかった。
「岸田さん、一回だけ言うたことあるんよ」
「え?なんて?」
「あいつはあかんって」
実里は眉根を寄せて、訝しげに菜穂子の顔を見た。意味が分からなかった。
「それだけ言うてな…。ほんま、岸田さんらしいわ。何があかんのか言うてくれへんかったし」
また、カチン、と音がした。小さな棘がついた枝の切れ端がひとつ足元に落ちた。
「せやけどな」
少し声を落として続けた。
「あれは和さんのほうやと思うで」
実里は息が止まりそうなった。
「どういうことですか?」
「和さんな、よう言うてたんよ」
また少しだけ間があった。風が吹いて、店先の花が揺れた。
「ここはこのままでええねんって」
言葉の意味がすぐには分からなかった。
「ここって?なごみのこと?ですか?」
実里の胸の奥で、何かがゆっくり動いた。
「このままでええんやって、よう言うてた。和さんな、自分が入ったら、変わってしまう思うてたんやろうな」
「入るって?何が?え?どこへ入るん?」
「奥さんになるってことや」
「えっ?」
「和さんな…」
「あの店、好きやったんよ」
菜穂子は3軒隣の(なごみ)に顎を向けて目をやった。カチン、ともう一度鋏の音がした。
「せやけど…」
また少し間があいて続けた。
「自分のもんにはせえへんかったんや」
「なんで?」
実里は首を傾げて訊ねていた。
「たぶんな」
菜穂子は柔らかく笑みを浮かべた。
「壊したくなかったんやろ」
風がまた吹いた。花の匂いが少しだけ強くなる。あたしは何も応えられなかった。
実里が(なごみ)に戻ると、カウンターの中は静かだった。サイフォンのガラスが、窓から入る午後の光を受けてぼんやり光っている。和が毎日立っていたこの場所。思いついたように、やってくる巌が座っていたカウンター席のこの椅子。実里はそれらの真ん中に立ち、ふと思った。あたしはこの店のことをどれだけ知っているのだろうかと…。
その日の閉店後、店の中はやけに静かだった。床にモップを掛けて、テーブルにアルコールを吹き付け拭いて…、と、いつものように閉店後のルーティンワークを行っているのに、どこか落ち着かなかった。今井花壇で聞いた話が頭から離れなかった。
「壊したくなかったんやろ」
モップを絞る手を止めて、実里はカウンターを見た。巌が座っていた場所。和が立っていた場所。そしていま、その間に実里が立っている。その並びが急に気になってきた。
カウンター後ろの食器棚の一番下に、小さな引き出しがある。そこには和が使っていた帳簿や古びた書類などが纏められて入っていた。普段はあまり触らない。コーヒー豆の入荷状況やコーヒー豆は価格が変動するので、その価格など、必要なときだけ少しだけ見ることがあった。実里は何気なく1冊のノートを手に取った。表紙は少し色あせていて、角が丸くなっている。それを開くと、和が書いた几帳面な字で、仕入額や売上額が記載されている。日付や数字。それがずっと続いている。
和は上場企業で企画課長を務めていたぐらいだから、それぐらいは当然の資料だと思えた。ページを捲っていく。同じような記録が続いていたが、その途中でふと手が止まった。数字が並んだなかに短い文字があった。たった1行だけ。それは他の文字より少しだけ小さく書かれている。実里は無意識にそれを読んだ。
〈なごみはこのままでいい〉
それだけだった。誰に向けて書いたのかも、何のことなのかも分からない。実里はしばらくその文字から目を離せなかった。昼間、今井花壇の菜穂子から聞いた言葉と重なり、胸の奥で何かがゆっくり繋がっていく気がした。もう一度そのページを見た。その文字の横に小さな文字が書かれていることに気付いた。ページの端にさりげなく、(和)と。実里は息を止めた。すべての音が店のなかから消えたように静寂が訪れた。
(なごみ)と(和)
その二つの言葉が頭の中で重なる。この店の名前は…。そこまで考えて、実里の思考パターンがそれ以上進めさせてくれなかった。進めてしまうと、何かが変わってしまう気がしたのだ。実里はノートを閉じた。掌に少しだけ重みが残る。でも、それだけじゃない気がした。実里はその名前の意味をまだ全部は知らない。
誰もいない店で、サイフォンのフラスコにドリップポットでミネラルウオーター入れた。アルコールランプに火を点けて、しばらくすると、ゆっくりと気泡が上がり始めた。湯はやがて上に上がり、ロートのなかで挽き豆と混ざり合う。撹拌されると、またフラスコへ戻っていった。実里は見慣れすぎたその情景を黙って見つめながら考えていた。この店は…。巌が見ていた景色。和が見ていた景色。実里はただそれをなぞっているだけなのかもしれない。




