第7章 引き継ぎの日
巌の葬儀は岸田電建の社葬として盛大に行われた。実里が喪主を務め、小林直弥が葬儀委員長として、葬儀すべてを取り仕切って、何事もなく無事終えることができた。初七日法要を終えた後、しばらくして小林から連絡があり、実里の自宅を訪れた。
「社長は岸田電建の将来を考えて、実里お嬢さんや岩本さんのこともいろいろ考えておられていました」
小林はリビングのソファに腰掛けて、1枚の書類を出して実里の前に差し出した。
「これ見てください。お嬢さんも、岩本さんも岸田電建の株主になっています。ま、上場しているわけではないので、大したことはないんですけど、役員の私が言うのも変ですが、会社の時価価値から考えると、まあまあってとこですね」
実里は会社のことには全く関わったことがないが、小林は会社の登記簿謄本を見せながら、巌の持つ株式をあたしと和さんに半分ずつ割り当てていると教えてくれた。それは実里にとって軽い驚きだったが、それよりも小林が和のことを実里以上に知っていることに驚いた。
「小林さんはなんで和さん、あ、岩本さんね、以前から知ってはったんですか?」
実里は差し出された謄本を見ながら訊ねた。
「ああ、岩本さんは元々お得意先の発注部署の責任者でしたから…。私が電建に入社したときは、すでに仕事でお世話になっていて、お会いすることも多かったですね」
小林は笑みを浮かべながら応えた。
「へー、それ初耳やわ」
実里は謄本から顔を上げて小林を見た。
「ええ、そうですよ。その後のことは何があったんかは知りませんけどね…」
小林は知らないと言いながら嘘っぽい目を向けて笑った。
「そっか、ま、今更の話やから、どうでもええことやけどね」
実里は片眉を上げて小林を睨んだ。
和は実里の達っての希望とのことで、友人代表の止め焼香をさせてもらった。また初七日の法要にも参加させもらえた。和にとっては何も言うことはないし、身体のなかに留まる悲しみに、お礼の気持ちを含めた涙がとめどなく流れ出てしまった。しかし、いつまでもそんなことは云ってられないと、葬儀が終わって十日後の今日、和は店を開けることにした。開店時間までまだ30分あるが、実里に教えてもらったマドレーヌを焼き上げて、カウンターの上で包装し掛けたところでドアベルがなった。
「おはようさん。今日から店開けるんかいな?」
コンビニ店長の染井啓介だ。
「あ、おはようございます。先日はいろいろお世話になりました。ありがとうございました。でもまだ準備できてへんから。ちょっと待ってくれますか?」
和は白いエプロンを腰に巻きながら、カウンターの外へ出てきて微笑んだ。
「ああ、大丈夫や。待ってる、待ってる。ゆっくりして。せやけど、岸田さんが亡くなって、こんなん言うたらあかんやろうけど、ええ葬送やったなあ。社葬ってあんなことするんやなあ」
「うん、そうやね。あたしにも、勿体ないぐらいちゃんとしてくれはったわ。実里ちゃんにお礼云わんとあかんねんけど、あれからまだ会えてないねん」
「ふーん、そうなんや…」
「あ、コーヒーやね?いま淹れるから」
和は思いついたような仕草で笑顔を向けた。
いつも通りの手順でフラスコの湯が沸いて、ロートに上がっていく。いつもそれを眺めている染井と同じように、何故か今朝は和も見つめていた。自身も引き際なのだろうかと思いながら…。
実里から連絡あったのはその日の午後だった。
「あ、和さん?このあいだはお疲れさまでした。ちゃんとお礼もできなくてすみませんでした」
「いえいえ、こちらこそ。いろいろ気遣ってもらって、ありがとうございました」
「今日、店、開けてるの?」
「うん、今日から開けた。ま、お客さんはいつもの常連さんだけやけどね」
和は小さく笑った。
「うん、じゃあ、これから行きま~す。美味しいコーヒー淹れてなっ」
しばらくしてから、実里が笑顔を見せてやってきた。
「こんにちは~」
「いらっしゃい」
ドアベルと共に笑顔でお互いに声を掛け合った。
「あら?実里ちゃん。もうええの?」
先客の今井菜穂子が笑顔を向けた。
「ああ、今井さん。このあいだは忙しいのにわざわざ来ていただいて」
「そんなんどうでもええけど、それよりちょっとぐらい落ち着いたん?」
菜穂子は心配そうな目をして眉根を寄せた。
「まあまあです。それより会社休んでるほうが気になって。忌引休暇は今日までやし、早いこと現場に戻らんとね」
「そんなん、もうええやんか。お父さんが亡くなってるんやから」
菜穂子は無責任に言い放つ。
「うん、お父さんの会社のこともあるし、主人とも相談してる、それ」
実里は伏し目がちに応えた。
「そうやろ、もう辞めとき、辞めとき。うちなんかと違うて、ご主人もちゃんと稼いではるんやから」
菜穂子は恨めしそうな目つきで見る。
「今井さん、何言うてはるのん。そんなん、ほっといたりいや」
和が笑いながらあいだに入った。
「あ、そやね。大きなお世話やったわ。ごめんなさい」
菜穂子はぺこりと頭を下げた。
夕刻になって、何か深刻そうな恋愛話をしていた男女4人組の客が帰っていったので、和は閉店時間の6時までにまだ少し早いが、店を閉めることにした。
「実里ちゃん、ちょっと呑みに行かへん?」
和はカウンターをダスターで拭きながら、今日来店してから店を手伝っていた実里に訊ねた。
「えっ?なんでまた?」
「別に理由はないねんけど。実里ちゃんと呑んだことないなあって思ったから」
「うん、そう言えばそうやね。うん、行きましょか」
実里も同意した。
目の前の駅から私鉄に乗って2駅行くと大阪で有数の繁華街がある。和が連れて行ったのは、歓楽街ともいうべき通りの一角にある割烹だった。
「いらっしゃいっ」
〈やまヰ〉と染め抜かれた紺地の暖簾を右手でよけて、木製引き戸の扉を開けると同時に声が響いた。
「こんばんは~」
実里はちょっと申し訳なそうに頭を下げながら、上目づかいでカウンターの奥に目を向けた。
「岩本さん、ご無沙汰でしたねえ」
カウンターの中央で、糊がしっかり効いた七分袖の調理白衣にネクタイ姿の男性が笑顔で応える。おそらく和よりは若い。実里と同年代と思われる。
「ごめんねえ、大将。よう来れんで」
「会社辞めはってから、喫茶店始めはったって、営業部のえっと、そうそう、森下さん。あの人から聞いてましたんやけど」
「そやねん、あれから2~3回来ただけやもんね」
8席並んだカウンターの真ん中付近で、中年の男性と若い女性のカップルが1組談笑していた。おそらく、クラブかラウンジに勤める女性の同伴出勤に付き合わされた客だろう。和と実里はカップルから2席開けた席に腰掛けた。
「岩本さん、いらっしゃいませ」
鶯色の作務衣に紺色の前掛け姿の女性が後ろから声を掛けて、温めたおしぼりを差し出した。
「あ、女将さん。ご無沙汰してました。さっきは、いきなり電話してすみませんでした」
「ほんまですわ。岩本さん?えっうそっ?幽霊かって思いましたわ」
「もおっ、そんなん云わんといてよぉ」
和は頬を膨らませて女将を睨んだ。女将は和の横に立って、笑いながら竹の皮に毛筆で書かれた品書きを2人の前に広げた。
「でも、元気してはったんやね?うん、よかったわ。心配してたんよ、ほんま。店やりはったって聞いてたから余計にね」
実里は手元に置かれた温かいおしぼりに手をやりながら、3人の会話を聞きながら頷いている。
「はい、ま、それはそれとして、とりあえずビールください」
「はい、ありがとうございます。たしか生ビールじゃなくて、瓶ビールでしたね」
女将は和が頷くのを見てから、にっこり微笑んでカウンターの向こう側に入っていった。
「大将、久しぶりやから、ようわからんし、お任せでお願いしますね」
和は両掌を大将に向けて突き出し頭を下げた。
店の大将と女将さん、それにそのほかの従業員が行う手慣れたやり取りのなかで、和が軽妙な話をするのを実里はぼんやりと見ていた、というより実里の知らない和を見つけたように思えた。
「やまヰさんはね、あたしが務めてた前の会社が接待とかで使わせてもろうてたお店でね、あたしも、あの頃はよう来てたんよ」
実里は今日のお薦めだというヒラマサの刺身に箸を出した。
「ふーん、そうなんや。和さんのそんなとこ初めて見たわ」
実里も同じように擦った山葵を乗せた。
「ほんでね、今日、呑みに行こって誘うたんわね…」
和はグラスのビールを飲み干して、新たに注いでから、実里に向き直って続けた。
「いわさん、亡くなってしもうたし、あたしも区切りつけようと思うてんねん」
「うん、区切りって?どうするん?」
実里もグラス半分ぐらいのビールを飲んでから訊ねた。
「老人ホームに入ろうと思うねん」
「えっ?何て?老人ホームって?」
「うん、神戸でええとこ見つけてん」
「そんなとこ行ってどうすんの?」
実里は和に身体ごと向き直って訊ねた。
「ほら、あたしって親兄弟もおれへんし、付き合いのある親戚もないからね。身内言うたら、ま、実里ちゃんには悪いけど、ほんま無理やりなんやけど、いわさんだけやった」
「うん、それやったら、ちょっと頼りないけど、あたしがお父さんの代わりになるやん」
実里はじっと和の顔を見つめた。
「ううん、ありがとう。そんなんはもうええねん」
和は左右に首を振った。
「なんで?なんでやのん?あたしも結局はひとりやで」
「でも、これ以上、岸田家に迷惑かけられへんよ。せやからね、いわさんが創ってくれたあのお店、(なごみ)ね、あれ実里ちゃんに引き継いでほしいねん」
実里はどう応えればいいのか、頭のなかで言葉を探してみたが、適当な言葉が見つけられなかった。
先付から始まった(やまヰ)の懐石料理は焼き物、煮物、蒸し物と、順序良く続き、すべての盛り付けは美しく、言うまでもなく美味しかったはずだ。しかし、この店には申し訳ないが、それらすべてが実里の記憶には残らなかった。和が山形の地酒を冷酒で飲み始め、厨房にも楽しそうに笑顔を振りまく和の横顔をじっと見つめるだけだった。




